2017年 新年に寄せて●交わりを目指して共に生きる
   
 オリエンス 宗教研究所 所長 コンスタンチノ・コンニ・カランバ


 新年のお慶びを申し上げます。
 昨年公布された使徒的勧告、「アモリス・レティティア」(愛の喜び)は、現代の家庭生活における喜びについて語っていますが、その第一章は、「みことばの光に照らして」生きるとなっています。今年は「みことばを生きる」が本誌(月刊『福音宣教』2017年)のテーマですが、教皇は「神のみことばは抽象的な文章の羅列ではなく、家族のための旅の友であり、歩むべき道を指し示して」くれるものであると述べています(『愛の喜び』22)。では、本当にみことばは私たちを養う日々の糧になっているのでしょうか。さまざまな理由からそう簡単ではないと思う人もいるでしょう。しかし、「旅の友」であるからこそ、みことばは結婚・家庭の起源(創世記2・24)であり、生活に対しての貴重な支え・導きでもあるのです。ですから、その光に照らされて歩んでいきたいものです。
 そして、何事においても、聖書を読み、みことばを味わい、常に家庭の中で祈りを実践することによって、教会の一致を望んだ主イエスとの関係を深めることが可能になります。こうしていくうちに、きっと他宗教との対話と交流も深まっていくのではないでしょうか。人類が日増しに強く結びつき、異なる国民間の交流が深まりゆく現代にあって、教会には、他宗教との関係、諸民族の間に一致と愛とを促進する責務があり、人々に共通なものや、相互友好を作り出すものについて、より注意深く考察すべきという方向を第二バチカン公会議は進めてきました。(Nostra aetate 『諸宗教に対する宣言』1参照)。みことばを和解と平和の源泉として再発見し、諸民族の共存共栄を推進することは極めて重要です。それこそエキュメニズムが目指す主要課題、教会の一致です。しかも宣教への第一歩であると思います。「教会は、すべての善意の人、特に人類のさまざまな宗教伝統に属する人々と出会い、対話し、協力することは、みことばの宣教に不可欠な部分であると考えます」(ベネディクト16世『主のことば』117)。
 さて、今からちょうど500年前、教会は大きな改革危機に直面しました。思い返せば、マルティン・ルターをはじめとする宗教改革者たちが、「義認の教理」についての解釈を行い、「贖宥(しょくゆう)状」(免罪符)に関して不満を感じ取ったのがその要因であると思われます。ルターは、人は「神の恵みへの信仰によってのみ」義とされる(救われる)と説く一方で、カトリック教会側は「信仰と善行」、つまり恵みと共に人間の良いわざによって義とされると考え、両者の対立が生じました。贖宥状とは、罪のゆるしを受けた者に課せられる無償、もしくは金銭的償いであると受けとめられていました。しかし、次第にそれがエスカレートし、結果として本来の意味が失われ、教会にとっての単なる金集めの手段になってしまったのです。ルターは、それは信仰を愚弄するものだと「95ヶ条の論題」で非難しました。結局、教皇レオ10世やトリエント公会議が、ルターを異端者として宣言し、彼は破門されました。
 あれから長い年月が経ちましたが、教会は過去に束縛されてはいけないと考え、すべてのキリスト者の一致・和解を取り戻すエキュメニカル運動を行っています。現在ではルターの改革が教会生活における聖書の中心性に光を当てたことが評価されています。だからたとえ、互いに教理上の相違点があったとしても、キリスト教諸教会の一致を回復すること、また交わりを目指して共に生きることが今、ことさらに重要な課題とされているのです。そして和解に向けて、他宗教との建設的な対話をもって、互いに耳を傾け合い、尊敬し合いながらキリストの意志を妨げる分裂を打ち破っていくことが期待されます。
 終わりになりますが、「みことばを生きる」とは、みことばの証し人になることにほかなりません。そこで、家庭で聖書に親しみ、祈ることから始めればよいのです。そして、宣教への熱意を重視するのはキリスト者のアイデンティティですので、多様性を大切にしながら、みことばを告げ知らせることに心がけましょう。今年も、神のみことばを共に証しすることを祈り願ってやみません。        (月刊『福音宣教』2017年1月号より転載)