『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2014年11月30日  待降節第1主日 B年 (紫) 紫

2014年11月30日
目を覚ましていなさい (マルコ13・33より)


キリスト
  ステンドグラス
  フランス ストラスブール大聖堂美術館
  1050−70年


 このキリストの顔は、実はもっと大きな場面の中の一部である。それは、ルカ福音書7章36−50節の「罪深い女を赦す」の場面。ファリサイ派の人(シモンという名であることが後でわかる)の家に入ってイエスが食事の席に着いているときのことである。「一人の罪深い女が……香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら、その足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(7・37- 38節)のである。クローズアップしたイエスの顔は、そのことについて、シモンと対話をしている光景の顔である。女の行為にすでに気づきつつ、シモンに教え諭すイエスの顔である。(参考図として、この場面全体のステンドグラス作品を示す)。
 このように元の場面は、ルカ福音書7章のエピソードなので、直接、きょうのマルコ福音書からの福音朗読箇所13章33−37節にちなむものではない。マルコの箇所は、待降節第1主日のテーマとして、主の来臨の備える心の覚醒に関する箇所である。主人が帰ってくるときの僕(しもべ)の用意にたとえて、「人の子」という言葉で予告されるイエス自身の再臨のときに備えて、一人ひとりが「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13・33)と呼びかける。それは、キリストを信じる者すべてがたえずキリストに心を向け、意識を覚醒させ、生活と行動を整えるようにという普遍的メッセージである。
 そこから考えてみると、ルカ7章36−50節に登場する「罪深い女」は、まさに、イエスの到来を知って、彼を迎えるために最大限の行いをした人であることがわかる。すでにそのことに対して、イエスは、「あなたの罪は赦された」と宣言し(ルカ7・48)、「あなたの信仰はあなたを救った。安心して行きなさい」と告げる(同50節)。
 きょうの福音のテーマである「目を覚ましていなさい」という呼びかけは、マルコ福音書ではイエスの宣教活動における最後の教えにあたる終末の来臨予告(マルコ13章)とのつながりで出てくる(同様のメッセージを組み込んでいるマタイ24章36-44節もルカ21章34−36節も同様)のだが、しかし、考えてみると、イエスの宣教活動の最中に登場するさまざまな人々の態度の対比がなされるとき、それはすでに救い主キリストの到来を待ち望んでそれに備え、積極的に対応している人と備えていない人、受け入れる人と受け入れられない人の対比がなされているともいえる。
 罪深い女がイエスの足もとに来て、香油を塗って迎えたというその行為のうちに最大限の回心がある。そのことに対して神の赦しがすでになされていることを、イエスは示し、その事態を「あなたの信仰があなたを救った」のだと語るのである。この「罪深い女」とイエスとの出会い、関わり自体が、キリスト者すべてにとって主の来臨に備えて気をつけて目覚めていることへの招きであることに気づかなくてはならない。
 回心し、イエスを迎え、もてなし、イエスとの対話をとおして神の赦しを体験し、イエスのことばによって安心を得て、再び生活の中に戻っていく……このプロセスは、神と出会い、自らの罪を悔い改め、イエスと出会い、結ばれ、そのことばを支えにして生活する者となるという意味で、信仰者の回心と洗礼、日々のミサ参加、そこでのキリストとの出会い(みことばの食卓とキリストのからだの食卓での養い)、生活への派遣という意味で、人が信者となるプロセス、日々のミサを中心とする信仰生活の姿までもが暗示されているのである。
 たまたま、きょうのマルコ福音書のメッセージに合うキリストの顔を探して、このルカのエピソードの場面のイエスの顔を掲げたのだが、内容的にもつながりうること、また、我々の信仰生活にもより密接になってくることが気づかされ、興味深い。
 マルコ福音書では、僕たちが「仕事を割り当てて責任を持たせ」られているとあるので、その「目覚めていなさい」のメッセージはもっと積極的にキリスト者の使命と責任にも及んでいることにも注意したい。
 待降節は、これほどに豊かなメッセージとともに始まるのである。

(参考図)

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