『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2014年12月14日  待降節第3主日 B年 (紫) 紫

2014年12月14日
あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる(ヨハネ1・26より)


洗礼者ヨハネ
  シエナ近郊オッセルヴァンツァ教会の聖櫃装飾画
  キジ・サラチーニ宮殿 15世紀


 15世紀シエナ派の画家による作品、シエナの巨匠作という銘があることから、その人物はだれかがさまざまに研究されているようである。この装飾画は中央に四天使に囲まれる聖母子を描くものであり、その(向かって)右翼にこの洗礼者ヨハネが描かれている。このヨハネが左手で抱えている杖になびく帯には「見よ、罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)という言葉の一端が略記されているのが見え、ちょうどきょうの福音朗読の中のヨハネ1章6-8、19−28節に続く箇所の言葉であることも表紙絵に掲げた理由である。ちなみに、きょうの待降節第3主日は、入祭唱にある「主にあっていつも喜べ」から、「喜びの主日」と呼ばれ、ばら色の祭服を付ける慣習もある日である。この洗礼者ヨハネの外衣の色がまさにばら色で、主の到来の喜びを醸し出しているようにも感じられる。表紙絵に掲げたもう一つの理由である。
 さて、このヨハネの姿は、先週のデチャニ修道院との対照が興味深い。繊細でやや悲しげでもあり、柔和なイメージといえる。先週のイコンのヨハネは、「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」(マルコ1・3、イザヤ40・3参照)という預言を体現するかのように力強く、厳しさがあり、また、正面を向いて、我々に向けて呼びかけているようでもあった。こちらの洗礼者ヨハネは、別な方向を向き、その右手も天を指しているようである。
 きょうの福音書の中で、ユダヤ人たちの「あなたは、どなたですか」(1・19)という問いかけに対して、ヨハネはメシア(=救い主)ではない、また(当時人々から待望されていた)預言者エリヤの再来でもなければ、モーセのような預言者でもない、と否定をもって答えている(ヨハネ1・19−24)。このような対応がこのヨハネの絵には示されていると感じられる。ここにはいない方、これから来られる方のほうを向き、その方のことを予告するという姿勢。彼の顔の向きや手の向きからそれが感じられる。人々が待ち望んでいる以上の方の到来、その方への関心を呼び起こすに十分な洗礼者ヨハネの描き方といえるのではないだろうか。
 さて、ここで、待降節の第2主日と第3主日には、どうして、洗礼者ヨハネが登場するのかを考えてみたい。洗礼者ヨハネがイエスの先駆者として現れ、それに続いてイエスが現れ、彼から洗礼を受け、そして、自らの福音宣教を開始する。いわばイエスの公生活の前段階が記念されるのである。
 待降節をクリスマス、主の降誕を待つ準備の季節とだけ考えるとこれは主題が違うのではないかと一見思ってしまう。実際、本当に、主の降誕の前段階の出来事が読まれるようになるのは、待降節第4主日になってからである(B年の今年は、マリアへの天使ガブリエルのお告げの場面)。
 実は、これは、待降節という訳し方からくる錯覚である。待降節の原語(ラテン語)はアドヴェントゥス(Adventus) であり、直接には到来、来臨の意味である。本来、「来臨節」といってもよく、キリストが再び来られるときという主題、そして、洗礼者ヨハネによるイエスの現れへの予告とあかし、そして、いよいよ、降誕を予告する出来事の想起へとだんだん遡っていく構造になっている。確かに、各段階ともにイエスの現れへの待望と予告の段階なので、「待望」という意味合いを込めることは意味がある。長くなるが、「主の来臨待望節」といってもよい。降誕祭からは「降誕節」というが、今の説明と対応させると「来臨実現節」ともいえる。それは、降誕・聖家族・公現・神の母聖マリアと続き、主の洗礼によって締めくくられる。この降誕節最後の祝日にも洗礼者ヨハネが重要な役割を果たすことを、待降節第2、第3との対応から重視したい。待降節〜降誕節は、マリアや聖家族とともに洗礼者ヨハネもクローズアップされる季節なのである。

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