『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2014年12月28日  聖家族 B年 (白) 紫

2014年12月28日
わたしはこの目であなたの救いを見た(ルカ2・30より)


主の奉献
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)


 聖家族の主日(祝日)のB年の福音朗読はルカ2章22〜40節で、「主の奉献」の祝日(2月2日)の長い形の朗読箇所と同じである。ただし、第一朗読と第二朗読は「主の奉献」の祝日に用意されているもの(マラキ3・1−4、ヘブライ2・14−18)と異なり、第一朗読は、創世記15章1- 6節、21章1−3節、第二朗読は、ヘブライ書11章8、11−12、17−19節といずれもアブラハムの召命と信仰をテーマとする箇所になっている。
 この流れで、きょうの福音を見てみよう。神の民イスラエルの歴史を踏まえた救い主の到来への喜びをシメオンが告げる内容である。神殿にささげられるために両親に連れられてイエスが来たことは、まさしく、この民の歴史の中に救い主が現れたこととして語られているともいえる。律法と預言によって導かれてきた神の民イスラエルの歴史に、今救い主、新しい導き手としてイエスが現れたことを述べられているわけである。ここに広大な歴史観を視野としてもっているルカ福音書の特徴が表れている。
 そのイエスが、律法に導かれる民の範囲を超え出る存在であることについてもシメオンは予告する。幼子イエスについて、「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(ルカ2・32)というところである。
 イエスは、イスラエルの枠を超え出て、異邦人、万民のための救い主である。そのことで起こる受難という出来事を見越して、シメオンは、「この子は、……反対を受けるしるしとして定められています」(同2・33)と述べる。その言葉に両親は驚くが、やがては、その道をたどるイエスの生涯につき従っていくことになる。彼らは、その意味で、神の救いの計画に従う者の模範として描かれているのである。まさしく聖家族である。
 さて、そのようなシメオンのあかしがあるイエスの神殿奉献の場面の叙述を、カルペンティール師はどのように描いているだろうか。幼子イエスを取り囲むように4人の大人が描かれている。(向かって)左は、マリアである。(向かって)右側は、シメオン。この二人が足元の鳩の入っている籠の前に立っており、前に出ている。後ろの二人は、ヨセフと女預言者アンナ。いずれにしても、ここは、まさにルカ2章28節の「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」にあたる瞬間が描きとどめられているのである。
 この絵のシメオンは、なかなか力強い。「この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉(ルカ2・29)からすると、死が間近い老人を連想するが、ここのシメオンは違う。しかも、視線はイエスに向かっているのではなく、この絵を見る我々のほうを向いている。この目こそ、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」のその目である。この目を強調するために、作者は、彼の視線をこちらに向けたのであろう。我々もこの目をもちうるであろうか、と問いかけられているような気がしてくる。
 この四人の立つ場であるが、カルペンティール師はよく石畳の道を描く。ここでは、マリアもシメオンも裸足。貧しい者の象徴なのかもしれない。いずれにしても、この立ち姿に、旧約の神の民の歴史から新約の神の民がともに、神の道に立っている光景を味わうこともできよう。神のもとを歩み続けている神の民、神の家族の姿を心に刻んでみたい。

 このページを印刷する