『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年2月1日  年間第4主日 B年 (緑) 緑

2015年2月1日
「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1・27より)


汚れた霊につかれた人をいやす
  壁画 
  オーストリア 北東部 ランバッハ修道院 11世紀


 オーストリアの北東部(オーバーエストライヒ州)リンツ司教区にあるランバッハ修道院は、11世紀半ばに創建されたベネディクト会修道院で、その聖堂内陣にある壁画(フレスコ画)の一つ。この修道院の壁画は、ドイツ語圏におけるロマネスク様式壁画の最初とされ、ビザンティンの影響の強さが感じられるのがその特徴という。中世の絵画らしいと思えるのは、イエスの両脇に非常に多くの人物が前列から後列まで重なっているのに対して、いっこうに立体的な奥行きを感じさせないところである。写本画の場合と同様に、建物の描写が場面の枠組みを形づくっているが、それが、建物の内部や外部を立体的に描写するというわけでもない。地上に来られた救い主イエスが汚れた霊につかれている者をいやしたという出来事の意義、すなわち救いがこの世界にもたらされたことが、建物の描写によって象徴的に示されていると思われる。
 イエスは人々の中央に描かれ、その位置が人々のいる地面よりも少し高く描かれている。そのことのうちに、主であるイエスの尊厳が十分に感じられる。きょうの朗読箇所であるマルコ福音書 1章21−28節でいえば、汚れた霊に「出て行け」というと、霊がほんとうに出て行った(1・25- 26)。そのような事態を見て、人々が皆驚き「これはいったいどういことなのだ。権威ある新しい教えだ」(1・27) と論じ合っていた……そのあたりと符合する。絵の中の人々の数の非常な多さは、この驚きの尋常ならざるありさまを視覚的に表現しているのかもしれない。こうして、イエスが神の権威をもっている方であることが公に示され始めていくのである。
 絵では、汚れた霊につかれた男がイエスの足もとに描かれる。イエスと男との関係ではなく、イエスと汚れた霊の関係が示される構図であろう。「足もと」という語に注目してみると、マルコ12章36節では、イエス自身が詩編110 の1節を引用して教えているところに出てくる。「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」。詩編110 の原文(新共同訳)では、「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」とある。古代では、征服者の王が敗者を地上に横たえ、その首に足をかける習慣や、また王が玉座に座ると、足台に描いた敵の像の上に足を置く習慣があったことなどが『聖書 フランシスコ会聖書研究所訳注』(2011)の注で指摘されている。敵を屈服させ、すべてのものを支配する主の姿をいうものであり、このイメージを受けて、エフェソ書も次のように語る。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」(1・22)。
 きょうの福音で、汚れた霊を追い出すイエスの姿は万物を支配する主としての現れの始まりである。そのことは、死と復活において決定的に実現され、復活から昇天、そして聖霊降臨のプロセスとして使徒たちによって体験され、あかしされていく。ミサの中で、我々が使徒信条をもって「神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」と宣言する主キリストの姿がこの場面の図にまぎれもなく映し出されている。

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