『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年2月8日  年間第5主日 B年 (緑) 緑

2015年2月8日
忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを(ヨブ7・7より)


神と対面するヨブ
  聖書写本
  バチカン図書館 13世紀


 きょうのマルコによる福音朗読箇所では、大勢の病気の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出していったイエスの歩みが語られる。その活動は、人里離れたところでの祈りとともに行われ、しかも、その活動が「宣教」であると呼ばれる。「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(1・38)。この宣教という言葉は福音と結びついている。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1・14-15)と語られるとおりである。マルコ福音書ではこの「福音」の「宣教」がまず、イエスのいやしのわざとして示される。それが「神の国」の訪れそのものである。この、イエスによる神の国の訪れ、その力によるいやし、解放というものをそれを受ける側の心情として考えていくための黙想のヒントとして第1朗読にヨブ記が配分されているように思われる。
 ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(ヨブ1・1)。そのヨブを略奪、火事、強奪、嵐といった災難が襲う。そして「サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚の病にかからせた」(2・7)。彼を見舞い、慰めようとする三人の訪問を受ける中、ヨブは、「自分の生まれた日を呪って」(3・1)語り始める。そこからつづられていくヨブの言葉は神との魂の対話であり、祈りである。
 ヨブ記に関する挿絵では、彼の病気のさまを描き出すものが多い中、この絵の場合は、独り神と向かい合うヨブの姿を描いている。神が、ここでは、天空の中に人物像として描かれている点も興味深い。初期の写本画やモザイクでは、半円の天あるいは雲から現れる右手として描かれることが伝統的であったが、この絵のように、髭のない青年像として描かれたり、さらに時代が下ると白髪白髯の老人の姿で描かれたりするようにもなる。この写本画では短く髭を生やしているが、どちらかというと青年に近く、キリストにも見える。そこに工夫があるのかもしれない。
 朗読箇所となっているのはヨブ記7章1-4 節、6-7 節。この7章は6章から続くヨブの語りの一部である。苦しみをひたすら嘆き、訴える部分と、そこからくる人間の存在の空しさへの思いが交差していく。朗読箇所の主題句は、「いらだって夜明けを待つ」(7・4)が選ばれている。これは、「夜明けまで転げまわる」の意味にもとれる記述であるという(『聖書と典礼』脚注)。「横たわればいつ起き上がれるのかと思い」(7・4)、夜通し苦痛に悩まされることを嘆いているのであろう。容易には回復の希望さえ口にできない痛みと苦しみの極みから出る言葉である。この後の節では「もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください」(7・16)とまで語る。表紙絵の文言として掲げた「忘れないでください。わたしの命は風にすぎないことを」(7・7)という言葉も、絶望を映し出す言葉なのであろう。そうはいっても、すべてが命懸けの神との対峙であることに我々は揺り動かされる。イエスがその宣教使命の中で、自分が来た目的となる人々は、おそらく、このようなヨブ的状況の人々なのであろう。そして、イエス自身、それらの人の気持ちをすべて背負って受難の道を歩む。ヨブの苦しみ、もしくはさらに鋭く険しい苦難を体験していくのがイエスなのであろう。
 それらを思い巡らしながら眺めるとき、表紙絵のヨブが対話する神は、まさしくイエス・キリストとして映ってくる。命懸けで、神と向かい合うヨブの吐露、告白、叫びは、すべて苦しむ者をキリストとの出会いにいざなう預言ともなっていくのである。

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