『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年2月15日  年間第6主日 B年 (緑) 緑

2015年2月15日
何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい(一コリント10・31より)


十字架のキリスト
  ベルンヴァルトの磔刑像
  ドイツ ヒルデスハイム司教座聖堂宝物館  11世紀初め


 ドイツ北部の古い司教座都市ヒルデスハイムは、自身も工芸家であった司教ベルンヴァルト(960 頃-1022,司教在職 993-1022)のもとで造られたオットー朝時代の傑作とされる金属工芸作品が多い。表紙に掲げた銀製の彫像は、初期ロマネスク様式にあたり、以後、盛んに作られていくキリスト磔刑像の先駆といわれる。長く、十字架にあっても目を開き、生きているイエス(復活のイエス)を描く磔刑図が多かったなかで、十字架の上で苦しみ、死にゆくイエスを描くタイプが主流となっていく初期の段階を示すものである。苦しみ、死ぬイエスであることは頭を垂れ、体が両腕の線か下に下がるように描かれていくところに示されるが、この像の場合はそれでもなお力強い身体を造形している。死の苦しみにあってもなお力強い十字架のイエス像……これを、きょうの第2朗読箇所(1コリント書10章31節〜11章1節)にちなむ作品として掲げた。
 この箇所で、使徒パウロがコリントの教会の信者に語りかける言葉は、すべてのキリスト者への呼びかけであり、そのメッセージは簡潔かつ明確である。冒頭では「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10・31)と語り、末尾では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(11・1)と呼びかける。この文脈全体がキリストに倣うことへの呼びかけである。すべてを神の栄光を現すためにすること、また、人を惑わす原因にならないようにすること(10・32)、すべての点ですべての人を喜ばそうとすること(10・33)……それらすべてが「神の力、神の知恵であるキリスト」(1・24)に倣う生き方の諸相である。神の栄光を現すということは、言い換えれば、神に栄光を帰すること、神を賛美することといってもよい。すべてを神賛美の心で行い、その心で生きていくところに、キリストに倣う生き方が成立すると教えているのだろう。
 この十字架に集約されている「神の知恵であるキリスト」に倣う生き方を、我々が今、現実の世の中で、21世紀初頭の世界、そして日本の社会において見いだしていこうとするとき、その道はどこにあるのだろうか。それは、我々が人類の一員として、また一つの民族の一員として、それぞれに歴史をとおして受け継ぎ、担わされている遺産を、正の遺産も負の遺産も含めて考えていかなくてはならない。
 そう考えるとき、きょうの福音朗読(マルコ1・40−45)で物語られる「病」の現実も、第1朗読(創世記3・16−19)で人間の根源的な宿命(使命ともいえる)となる「苦」の現実も、大きな展望のもとで関連づけられる。三つの朗読箇所をヒントに黙想を広げていくために、この十字架のイエスは、使徒の言葉とともに鍵となってくるのではないか。この日の祈願をも含めて味わってゆきたい。

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