『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年3月8日  四旬節第3主日 B年 (紫) 緑

2015年3月8日
わたしの父の家を商売の家としてはならない (ヨハネ2・16より)


神殿を清めるイエス
  エグベルト朗読福音書
  ドイツ トリール市立図書館 980 年頃


 イエスの「神殿清め」とも呼ばれる出来事を含むきょうの福音朗読箇所ヨハネ2章13−25節にちなむ絵である。他の三つの福音書(共観福音書)では、この神殿清めはイエスの宣教活動の終盤に位置づけられている(マタイ21・12−13、マルコ11・15−17、ルカ19・45−46)。それに対して、ヨハネ福音書では、カナの婚宴の出来事(2・ 1−12)の次、宣教活動の始まりにあたるエピソードである。他の福音書では、この神殿についてイエスは、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21・13)など、イザヤ書56章7節(「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」)に基づく言葉を告げる。それに対して、ヨハネ福音書では、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2・16)とあり、ここで神を「わたしの父」とあかししているという特色がある。
 共観福音書では、イエスの宣教の歩みの中でだんだんに明らかにされることが、ヨハネ福音書では最初から明らかにされる。それは、ヨハネ福音書の第1章で、すでに「初めに言(ことば)があった」(1・1)というみことばの先在のテーマ、そして「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)という受肉のテーマから展開していくからである。1章18節の「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」という結論からイエスの生涯すべてが説き起こされていくのである。そのため、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2・16)とした行いも、イエスの活動の根底にある意識を最初に表明する位置に置かれているのであろう。きょうの福音朗読箇所には、これに類することがもう一つある。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2・19)という言葉が復活の予告となっていることである。最後に物語られることがすでにここで予告される形となって、ヨハネ福音書の基調を明らかにしている。このような構成の妙に触れると、この福音書への興味がさらに湧いてこよう。
 そのような含みで表紙絵を眺めてみると、イエスの頭を包む光輪(神の子のしるし)、左に抱える書物(神の言〔みことば〕のしるし)の意味が生き生きと感じられてくる。この書物を、第1朗読(出エジプト20・1-17 長い朗読の場合)で思い起こされる十戒との対照でイエスの新しい掟を示すものと考えてもよいかもしれない。画面の(向かって)左側にはイエスに従う弟子、右側にはイエスから追放される人々(2・14「牛や羊や鳩を売っている者たち、座って両替をしている者たち」)。イエスの登場とまことの神に対するあかしは、人々の態度や、その心にあるものを明らかにしていく。宣教活動の展開の姿を予兆させる構図である。イエスの姿は後ろの神殿と重なっている。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ2・21)の意味合いを考えてもよい。両側の人々は、イエスの生涯の果てに起こった復活の真実に、心の目を向ける者と向けられない者の対照を先取りしていると考えることもできる。

 このページを印刷する