『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年3月15日  四旬節第4主日 B年 (紫) 緑

2015年3月15日
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネ3・16より)


十字架のキリスト
  ミサ典礼書挿絵
  スペイン トルトーサ司教座聖堂 12世紀


 中世スペインの絵画で描かれる十字架図は、他のヨーロッパの国々のものとずいぶん趣が違うと感じられる。中世の磔刑図で定着した諸要素を含みつつも金色と紺色を基調としたその画面は不思議な明るさと静寂さを醸し出している。手や足に流血の様は描かれず、イエスの身体は自身の重みで垂れ下がり、目も閉じられ、死んでいるようには描かれているが、そこには、静かな眠りが支配しているようである。これもイエスの死に対する一つの追想のかたちであろう。
 各要素はすでになじみ深い。マリアと使徒ヨハネについてはヨハネ19章26−27節を参照。太陽と月は、人の子の来臨の時の光景にちなむ(マタイ24・29、ルカ21・25など参照)。ここでは、太陽には男性、月に女性が描かれ、しかも、十字架の出来事におののきを覚えている様子である。イエスの死が、天変地異、宇宙の劇的な変化を意味する出来事であることのさりげない表現である。
 十字架の意味の深さを示そうとしているこの絵独特の図像構成が、十字架の下の部分にある。そこには、海のように波打つところから両手を広げて、十字架のイエスを見上げる男が描かれている。地の底の水の中から姿を現すアダムであるといわれる。創世記2章6節の「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」という人間の創造に関する記述を参考にしていると考えてよいだろう。そのアダムは、罪を犯したのち、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3・19)と宣告され、楽園から追放される(灰の水曜日の灰の式を思い出す)。そのアダムがイエスのもとに描かれているところには、パウロの説く「アダムは、来るべき方を前もって表す者だった」(ローマ5・14)という理解が表されていると考えてよい。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」(ローマ5・19)と語られる、十字架による贖いの意味が示されているのである。マリアと使徒ヨハネが(十字架のイエスを仰ぎ、嘆くようにではなく)、絵を見る者を直視しているように描かれているが、そこには十字架の意味を告げ知らせるという役割がこめらているものかもしれない。
 きょうの聖書朗読箇所にちなんでみると、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)と告げられる「世」がアダムによって象徴されているといえよう。第二朗読では、神は「その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(エフェソ2・5)と告げられ、十字架での贖いが神の愛のみわざとして語られている。アダムは「わたしたち」の姿にほかならない。
 そして、アダムとイエスがともに裸で描かれていることも、重要であろう。造られたままの姿の人間(アダム)と同じ裸の姿でイエスが死んだことによって、造られ、罪に服した人類は救われ、新しい体へと生まれていく。そのような未来は、イエスの頭の光輪をはじめ神の栄光を受けて輝いているそれぞれの光がすでに照らして始めている。

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