『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年3月29日  受難の主日 B年 (赤) 緑

2015年3月29日
「お前がユダヤ人の王なのか」(マルコ15・2より)



 ピラトの前のイエス
   ロッサーノ福音書挿絵
   イタリア ロッサーノ大司教区付属美術館  6世紀

 
 福音書挿絵の歴史の中でも初期の作例にあたる絵から、イエスの裁判をめぐる一連の出来事を描く絵である。この絵とともに受難朗読の箇所をゆっくり味わうことを勧めたい。B年の典礼は、この日のためにマルコ福音書15章1−39節を指定するが、長い朗読が可能な場合には、14章1節から15章47節までが対象となる。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」から始まる箇所で、主の晩餐の制定の箇所も含まれる。長いほうを読めば、ミサの意味に直結する形で受難の歩みを追っていくことになるので、典礼について学ぶためにも好適な内容となる。実際のミサでは長くて難しくても、個々人の朗読の際には全体を味わってみたい。
 さて、糸口としてピラトの尋問の箇所を各福音書で比べてみよう。マルコ、マタイは基本的には、同じで、ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、「それは、あなたが言っていることです」(マルコ15・2)と返し、ピラトが再び尋問すると、イエスは何も答えなくなる(4−5節)。このユダヤ人の王であるかどうかは、人々やピラトの関心事であり、イエスはその同じ地平には立っていないことが浮き彫りになる。イエスの沈黙が印象深い。ルカでは、イエスが「それは、あなたが言っていることです」と答えるところは同じだが、その後は少し変わっていて、イエスの沈黙は強調されず、むしろピラトが「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と告げる(ルカ23・4)。逆説的にイエスに罪がないことをあかししているのである。
 聖金曜日の受難朗読で読まれるヨハネ福音書になると、ピラトとイエスのやりとりが非常にふくらんでいる。そこでのイエスの返答は「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18・36)という明確なメッセージを放つ。四つの福音書はおそらく同じことを考えているであろう。イエスの受けたこの世からの“裁き”を教会が思いめぐらしていった過程が、これらの四つの福音書の受難の叙述の多様性に反映されていると思われる。マルコとマタイの記す「沈黙」の意味をルカやヨハネがさらに深く説き明かしているのであろう。
 我々にとっては、イエスの沈黙のほうがインパクトがある。この世の国と違う次元におられるイエスの立ち位置が重く受けとめられる。そこから十字架の死に至るプロセスは、イエス自身の歩みにおいて、この世と神の次元とが険しく接していくあり様を示していよう。絵の中で、ピラトとイエスの姿を見るときに、同じ平面に描かれた両者が無限の深淵を隔てているということを考えたい。あざけりは賛美の予兆、神に見捨てられることが全面的に受け入れられ、高められることの始まりとなる。この世での命が絶たれた瞬間に、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)とあかしされ、神のいのちにおける御子の存在が気づかれるようになる。「ポンティオ・ピラトのもとで」(使徒信条)とミサの信仰宣言で唱えるとき、受難に向かうイエスの歩み全体が思い出され、受難の主日、聖金曜日に記念される神秘がいつも祈られるのである。

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