『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年4月19日  復活節第3主日 B年 (白) 白

2015年4月19日
あなたがたに平和があるように  (ルカ24・36より)


 復活したイエスの現れ
   エグベルト朗読福音書
   ドイツ トリール市立図書館 980 年頃

 
 きょうの朗読箇所(ルカ24・35−48)に含まれる、ルカ24章36−43節にちなむ絵である。そこで、復活したイエスは亡霊などではないことを示すかのように、自ら食べ物に手を伸ばす。これも主題の一つと思われるが、絵の中で個々の対応を見ようとすると、違っているように見えるところもある。絵では、イエスが二人の弟子の間に立って、両方から差し出される器から食べ物をとろうとしているが、そこまでの描写は42節にはない。「焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」とあるだけである。食べ物について「焼いた魚を一切れ」とあるが、絵では多めの食べ物が器に盛ってあるようである。イエスの(向かって)左にいるのはペトロと考えられるので、彼が差し出しているものは魚なのかもしれない。イエスが二人の弟子たちの間に立っているところには、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」36節)の叙述の反映があるのだろう。イエスが両手を弟子たちに向けている姿は祝福の動作にも見える。
 ルカ福音書のこの箇所のすぐ後で、イエスは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(44節)と言って、「聖書を悟らせるために」弟子たちの心の目を開く(45節)。イエスが弟子たちの真ん中におられ、弟子たちの前で食べ、聖書を悟らせるという出来事の流れは、初代教会でも、信者たちの集いの中で続けられていく主の晩餐、後の感謝の祭儀の基にある体験を示していると受け止めることができる。もちろん、ここで、イエスは自らが食べるのであるが、弟子たちにとっては、実際にイエスが自分たちと一緒に食事をしたことが、先立つエマオに向かう弟子たちと一緒にとった食事(ルカ24・30)の出来事ともつながり、広い意味で、主の食卓の記憶としてまとめられていくのではないだろうか。聖書について説き明かされたことも、このエマオに向かう弟子たちとのエピソードで語られている(24・32)からである。
 福音書に記されるイエスをめぐる食事は、そのさまざまな形式(イエス自身が食べる、イエスが弟子たちとともに食べる、イエスが弟子たちに食べ物を渡して人々の飢えを満たす)のどれもが主の晩餐の意味につながる。そこにおいて、神の子であり救い主であるイエス・キリストの本質性が明らかに経験されるのである。このことはミサの意味を考える上で重要である。聖書に目が開かれること、主の平和が告げられることなど、復活したイエスの現れを述べる福音書の箇所は、ミサの意味を黙想するための豊かな泉である。復活したキリストとの出会いは、ミサにおいて続けられているといえるからである。そのことを復活節においてかみしめていきたい。


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