『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年4月26日  復活節第4主日 B年 (白) 白

2015年4月26日
良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハネ10・11より)


良い羊飼い
  石棺彫刻(部分)
  ローマ ラテラノ美術館 2−3世紀

 
 羊を肩に担ぐ羊飼いの姿は、初期キリスト教美術で数多く描かれている。この主題は、ギリシア・ローマ美術に由来するものだが、キリスト教においては、特にヨハネ10章の譬えを基に、信者の魂を担い導く救い主の姿として描かれていった。特に、表紙作品のように、カタコンベ(地下墓所)のほかに石棺彫刻によく描かれているが、これらの場や物に羊飼いが描かれるということは、異教芸術の伝統ではなかったもので、キリスト教美術の特徴といわれる。そこには、死者の魂を天に運び、来世への旅路に待ち受ける悪霊の力に打ち勝つことを救い主に託す祈りが込められていたのであろう。
 旧約聖書の中で、主である神と神の民との関係は、しばしば、羊飼い(牧者)と羊の群れの関係に譬えられている。答唱詩編で「主はわれらの牧者」と歌われる詩編23・1(新共同訳「主は羊飼い」)をはじめ、詩編95・7「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊」などのように「羊飼い」という語を使わなくても、そのイメージが念頭に置かれている場合が多い。このイメージは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ゼカリヤなどの預言者においてもたびたび登場し、羊飼いと羊の群れに関する語句が登場する箇所を拾い上げるだけで、神とその民の歴史をよく展望することができる。特に、散り散りになった羊たちを一つの群れに回復する救い主の到来について語るエレミヤ23章やエゼキエル34章は、このヨハネ10章の箇所を理解する上で重要である。
 ヨハネ10章は、イエスが「わたしは良い羊飼いである」(11節、14節)と、現在形で自分のことを告げる文が印象深いが、きょう朗読されるような、「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(15-16 節)という箇所もある。ここには、イエス自身が命をささげることによって、旧約以来のイスラエルの民と世界の諸民族がともに神の声を聞き分け、それに従う、新しい一つの民として生まれるという、大変大きな歴史の展望が語られている。このようなところの意味を考えるためにエレミヤ23章やエゼキエル34章などの預言を振り返ることは必須である。
 このように、神と神の民の関係を羊飼いと羊の群れとしてイメージする伝統は、第2バチカン公会議において再び重要なものとなっている。「神の民」という救済史的教会理解を導くための大きな動機として、そのイメージは働いているものと思われる。「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具であり…」(『教会憲章』1項)と語られる中に、命をかけてすべての羊を一つの群れに導かれる羊飼いとしてのキリストの姿が浮かんでくるのではないだろうか。
 そう考えると、表紙作品に描かれる羊たちは、神が救おうとしている全人類をも含みうるものである。キリスト者は羊飼いに導かれる者というだけでなく、むしろ、この羊飼いの手足であるというべきなのかもしれない。そんなふうに教会についての黙想を広げてみよう。 

 このページを印刷する