『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年5月3日  復活節第5主日 B年 (白) 白

2015年5月3日
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である(ヨハネ15・5より)


ぶどうと孔雀の描かれた十字架
  大理石製の戸棚の装飾
  イタリア ラヴェンナ 
  サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀

 
 表紙作品は、ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会に収められている大理石製の戸棚の装飾。内側の四角の部分の装飾は格子状で、文様の間の黒い部分はくり抜かれている。中央は十字架、両脇にいるのは孔雀。その周りをぶどうの蔓や葉や実が囲んでおり、同種のものが反復することで律動感を生み出している。孔雀は、古代において、肉が死んでも腐らない鳥と信じられていたため、一般に不死の象徴とされていた。それがキリスト教美術に受け継がれ、キリスト者が信じ願う復活や不死の象徴とされ、聖堂の壁面モザイクや石棺や墓碑などに好んで描かれていた。ここでも十字架が単に死を意味するのではないこと、むしろ復活と永遠の命のしるしとなることを両側面から示している。復活節におけるきょうの福音朗読(ヨハネ15・ 1− 8) の「わたしはぶどうの木」の教えを味わうためにふさわしい。
 福音書の中で、イエスの語る「ぶどうの木」は、すでにキリストの永遠のあり方をあかしすることばである。この譬えによって、キリストの死と復活によって実現された、御父である神と人間の新たなつながりが豊かにイメージされる。この前提には、旧約の預言者たちが語ってきた神の民の歴史がある。少し振り返ってみよう。
 まずヨハネ15章5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉。「ぶどうの木」は、神の民イスラエルの譬えとして語られてきた(しばしば「ぶどうの園」とも同義)。例えば、詩編80・9-15。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました。……、なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。森の猪がこれを荒らし、野の獣が食い荒らしています。万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いでご覧ください。このぶどうの木を顧みてください」。エジプトから導き出され、神の民として育つためにカナンの地に招き入れられたが、王たちの背信もあり、存亡の危機に陥るという歴史がこのように要約されている。やがてそこに、将来における救いの訪れが予告される。例えばゼカリヤ8章。「見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも、わたしはわが民を救い出し、彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。こうして彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。……平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に、これらすべてのものを受け継がせる」(7-8 節、12節)。神の民の再建、新しい神の民の誕生の約束である。
 このような背景から見ると、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉によって、まさしく、キリストに結ばれ、永遠のいのちを受け継ぐことになる新しい神の民の誕生が告げられていることがわかる。このような約束に信仰をもって応える人は、洗礼を受けてキリストに結ばれ、ミサをとおして聖体の秘跡に養われ、神の民に約束されている実りに向かう。このことが次のようにも語られる。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15・5)。この言い方はヨハネ6章のことばとも響き合う。「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(同6・51)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(同6・54)。
 「ぶどうの木」の福音自体、聖書全体に根を張り、そこから樹液を集めていることがわかる。そのぶどうの木が生み出したぶどう酒をもって、我々はキリストの御血にあずかるのである。

 このページを印刷する