『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年5月10日  復活節第6主日 B年 (白) 白

2015年5月10日
友のために自分を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15・13)


ペトロの足を洗うイエス
  聖堂扉の浮き彫り
  フランス サン・ジルの修道院聖堂 12世紀


 ヨハネの福音書では13章から17章までが最後の晩餐の夜の出来事である。その冒頭13章1節から11節までは、ユダの裏切りの予告と弟子たちの足を洗うというイエスの行為が絡み合って叙述される。12節から「互いに足を洗わなければならない」(13・14)ということばに代表される説教となり、21節からはまた裏切りの予告が続く。そして31節からはユダが出て行ったあと残った弟子たちに向けての説教となる。13章の終わりにあたる36-38 節でペトロの離反(否認)の予告があるが、14章からは再び長い説教となり、15章、16章と続く。いわゆる告別説教である。続く17章全体はイエスの御父への祈りである。
 13章から16章までに及ぶ教えからから、心に刻まれる言葉が次々と発せられる。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(13・34)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14・6)、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(14・27)。きょうの福音朗読箇所(15・ 9−17)からも「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15・12−13)が強く響く。ここに至るまで、キリストが与える新しい掟というテーマが中心となっている一連の説教である。
 なぜこのような確認をしたかというと、13章の初めに述べられる洗足の行為がまさに16章までの教えの内容を象徴的に予告していると考えられるからである。そして洗足の行為も、新しい掟の教えも、全体がイエスの十字架の意味の予告でありまた説き明かしであることにも注目したい。きょうの表紙絵の洗足の図も、福音朗読のメッセージに至る始まりの行いを思い起こす一助として掲げたものである。
 この聖堂扉の浮き彫り作品、ここでは、下から眺めたように写されている。ちょうどイエスが屈んでペトロを上に見るような視線に近いかもしれない。ペトロは、頭を指している。ちょうど、「主よ、足だけでなく、手も頭も」 (ヨハネ13・9)と言っている場面である。イエスの姿のたくましさとその視線の強さが印象深い。仕えているのだが、ペトロを諭すように見つめているようでもある。
 ここから考えさせられるのは、「仕える」という行為の性格である。仕え合うこと、愛し合うことを呼びかけるイエスのことばは、決して、単に相手に隷属して屈従することを呼びかけるものでもなければ、強制されて奉仕することをよしとしているものでもない。そこには「意志に反して」ということが含まれてしまうだろう。イエスのいう「仕える」は、むしろ「自らすすんで」する行いである。自由な意志をもって相手に向かい、相手にとって必要とされること、その人にとって望まれることを積極的に行っていくことである。その根本には神への思い、神への愛がある。神に仕えること、神を愛することのうちに行われる隣人愛の行為である。そのような自発的、主体的な意志的行為としての愛し合うこと、仕え合うことが新しい掟とされるなかで、きょうの福音では、「友」という言葉が印象深く登場する。
 主人としもべという関係ではなく、「友」という関係をつくりだすのが「愛し合うこと・仕え合うこと」である。兄弟姉妹と教会で言うときの関係もこの意味のものだろう。「友愛」「兄弟姉妹愛」という関係の歴史がここから始まる。今日的には「連帯」という語が表現しようとしている関係性に近いのかもしれないが、神への愛、神の愛が根源にあることを忘れてはならない。いずれにしても、今日求められている友愛、連帯の考え方やその実践的表現についても、きょうの福音から光を汲んでみたい。このイエスとペトロの姿もよいヒントとなっていくだろう。

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