『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年6月7日  キリストの聖体 B年 (白) 白

2015年6月7日
これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である (マルコ14・24より)


弟子たちに杯を渡すイエス
  テサロニケの墓碑銘と呼ばれる作品
  アテネ ビザンティン美術館 15世紀


  今回の表紙の絵はイエスと弟子たちとの最後の晩餐を描くもののうち、珍しくぶどう酒の杯を強調しているところから取り上げてみた。ちょうど、イエスが杯を傾け、弟子の一人がそれを飲もうとしている瞬間である。キリストの聖体の主日(祭日)B年のきょうの福音朗読箇所はマルコ福音書の最後の晩餐の叙述。聖体の秘跡の制定を含むものである。この福音の箇所に対して、第1朗読と第2朗読でどのように光を当てているかに注目すると、第1朗読(出エジプト24・3-8) は、シナイ契約の締結の儀式を述べる箇所。ここでは、契約の血に焦点が当てられている。第2 朗読(ヘブライ9・11-15)も、やはり自らを贖いのいけにえとしてささげられたキリストの血に注目させる。このようにしてみると、福音の箇所ではパンについて「これはわたしの体である」(マルコ14・22 )、杯について「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(同24)とパンと杯の両方を語っているのに対して、他の二つの朗読はいずれも「血」に注目させている。このことを、ぶどう酒とその杯を際立たせて描くこの絵とともに考えたい。
 日本語で、ときどき気になる表現として1コリント11章26節「このパンを食べこの杯を飲むごとに」という句がある。もちろん実際には「杯を」飲むわけではなく、杯からぶどう酒を飲むことなのだが、そういう言い方になって、「杯」が強調される。ちなみに、同じ1コリント11章25節の聖体の制定に関する箇所では、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」(ルカ22・20も参照)。ぶどう酒というだけでなく、杯が、これら主の晩餐、聖体の秘跡に関して案外と重要なのではないか。
 そこで、杯について聖書を調べてみると、一つには「怒りの(酒の)杯」という語があり(エレミヤ25・15 、49・12など)、神の裁きの象徴という意味がある。または「運命の杯」という意味で、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」(詩編16・5) という表現もある。そして、詩編116・13には勝利に関して神を賛美する文脈で「救いの杯を上げて、主の御名を呼び」という表現がある。裁きか救いかと命運を決するときの象徴になっている点が興味深い。このような意味は、マルコ10章38節のイエスの言葉「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」、同14章36節のイエスの御父に対する言葉「この杯をわたしから取りのけてください」にも通じよう。
 このような「杯」の意味合いは、古代のオリエントやギリシア、ローマの文化にもあり、一つの同じ杯から飲むことで兄弟の契りを結ぶという日本の「兄弟杯」にも似た儀礼があったり、または、日本語の「苦杯を嘗める/喫する」というように苦い経験を表現する句は同じようにあったりする。杯は、古今東西を通じて、非常に意味深いシンボルとなっているのである。
 これらを踏まえてみると、主の晩餐のぶどう酒の杯も、ぶどう酒がキリストの血と似ているものという側面だけでなく、一つの杯から飲むことで、キリストの命運、その受難の道をともに歩み、そしてそのことによって、キリストに結ばれ、キリストとかけがえのない関係に入ること、それによって、神との決定的な契りが結ばれ、しかも、キリストからの一つの杯をともに受けることで、それを受ける者が永遠の契りを結ぶ兄弟となるという意味合いも、さらに深まっていく。この意味は、パウロも1コリント10章16節で、ふさわしくない心で主の晩餐にあずかろうとする者を戒めて、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか」と諭しているところによく示されてくる。
 我々のミサの奉献文でも、「永遠の生命のパンと救いの杯を、栄光の神あなたにささげます」(第1奉献文)、「いのちのパンと救いの杯をささげます」(第2奉献文)というように、詩編の句にもちなむ「救いの杯」という表現が用いられている。ミサで毎回両形態での拝領が実施されることは少ないかもしれないが、少なくとも奉献文の祈りに心を合わせながら、契約の血、贖いの血という血にこめられた意味とともに、杯が含む豊かな意味伝統をも考えていくと、我々のミサ体験もさらに深まっていくのではないかと思う。

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