『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年6月28日  年間第13主日 B年 (緑) 緑

2015年6月28日
子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた  (マルコ5・41より)


ヤイロの娘をいやすイエス
  石棺彫刻
  フランス アルル
  キリスト教美術博物館 4世紀

  
 きょうの福音朗読箇所はマルコ5章21−43節(これは長い場合。短い場合は、5章21−24節と35b−43節)となっている。『聖書と典礼』でも21−43節全体が掲載されているので、これを前提に考えてみよう。この箇所はイエスによる二つのいやしのエピソードが組み合わさっており、短い朗読の場合は、このうちヤイロの娘のエピソードだけを読むことになる。中間の25−34節で語られるのは、長年出血で苦しんでいる女イエスに触れると出血が止まったエピソードである。どちらも、イエスとの出会いによる不思議ないやしの出来事として印象深く、それぞれキリスト教美術の主題となっている。
 この4世紀の石棺彫刻はヤイロの娘のいやしを描くものである。石棺彫刻はいくつかの場面を連続して描く形式をとっているが、表紙絵に掲げた部分のすぐ右隣には、十二使徒の派遣の場面が描かれている。この連続はルカ福音書の反映で、その8章40−56節(きょうのマルコの箇所との並行箇所)から9章1−6節のつながりに対応するものである。マルコでは、6章1−6節の「ナザレで受け入れられない」のエピソードのあとに、6章7−13節に十二人の派遣が語られる。
 表紙絵に示したヤイロの娘のいやしに関してはほぼ同じ流れで語られるので、マルコの叙述に沿ってここでは見てみよう。中央の寝床にいるのがヤイロの娘、その下には、娘が亡くなったことで泣きわめいている、家の人々(マルコ5・38)の一人(ここでは女性)が描かれている。彼女がすがりついているのがイエスである。石棺彫刻では、イエスが青年のように描かれることが多く、ここでも、左右にいる三人の弟子と区別がつかない。ただ、右手に巻物を握っているところで、神のことばの権威を示すイエスの特徴が示される。そのすがたは娘のほうに傾いて、「タリタ、クム」と語りかける力に満ちている。弟子たちは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネである(マルコ5・36)。どれがだれかはわからないが、イエスの前に向かい合っているのがペトロかもしれない。この三人は、マルコ9章2−9節でイエスが変容をするときに山に連れていった三人である。弟子たちの中でも柱となる面々である。
 イエスがこのいやしのわざで示すのは、天地万物を創造し、支える主の力である。それは病気にも打ち勝つ権威の発現である。やがては、受難の道を経て復活というかたちで現れる神のいのちの力の現れが、ここに示されるのである。
 第1朗読は、その神の創造のみわざとその意味を思い起こさせている。「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」(知恵1・13−19)。「神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた」(同2・23)。この神の計画をまさにイエスは実現する。そして、その十字架と復活はこのことを決定的に実現し、万物の完成までを導く方として神とともに我々の人生と世界を支えておられる。
 先週の福音朗読を見ても感じられたが、イエスの宣教生活におけるエピソードは、どれもが創造主である神の計画を背景にして救いのみわざの進展を示しつつ、究極的には十字架と復活の出来事に向かっていく各段階を示している。このことは、ミサのことばの典礼と感謝の典礼との結びつきにも反映していることがわかる。感謝の典礼の中心は、奉献文の中で、イエスの十字架によるあがないがパンとぶどう酒の杯で現されることを告げる聖別のところと、それにこたえてイエスの死と復活を記念し、いのちのパンと救いの杯をささげる奉献の行為にある。ことばの典礼におけるイエスの生涯の各場面の記念と感謝の典礼におけるイエスの死と復活の記念。この両方の結びつきを通して、ミサは、キリストの生涯による神の救いの計画の実現全体がいつも祝われているのである。
 このようにミサで出会い続けるイエスが、我々にとってどれほど力となっているかをあらためて感じとっていきたい。

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