『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年7月5日  年間第14主日 B年 (緑) 緑

2015年7月5日
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(2コリント12・9より)

使徒団の中のパウロ
  「トロアの祈祷書」挿絵
  パリ国立図書館  15世紀
  
 この表紙絵に描かれているのは、光景としては聖霊降臨と思われる。しかし使徒団の中にパウロが描かれているところに特色がある。ペトロは青のマントを着て、鍵をもっている人物。鍵は、いうまでもなくペトロのしるしである(マタイ16・19参照)。彼と向かい合う対等の位置にパウロが描かれている。パウロが持っている剣が大変目立っている。パウロを表すしるしとして剣がひんぱんに描かれるようになるのは13世紀からである。典拠の一つはエフェソ書6章17節「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」である。神の言葉を霊の剣としたこの句から、異邦人に力強く神の言葉をのべ伝えていった使徒パウロが思い描かれていったのであろう。
 絵の上に描かれた鳩は聖霊を意味する。そこから使徒たち全員に霊が振り注がれている。そのちょうど真下あたりにペトロの鍵とパウロの剣が描かれている。キリストからペトロに託された天の国の鍵、パウロをはじめ使徒たち、そしてすべてのキリスト者に託された霊の剣(神の言葉)は、教会を築く二本柱となった。使徒言行録2章の物語る聖霊降臨の情景を枠組みとしてとりつつ、ここに、聖ペトロ、聖パウロを礎とする教会の原型を見つめているのだろう。
 このような使徒団の中に描かれているパウロを見るとき、パウロの使徒団の中でも特別な位置、またそれに対する彼自身の独特な意識を思い起こさざるを得ない。パウロは使徒言行録9章で物語られるように、復活前のイエスとの面識はない。熱心なユダヤ教徒として、イエスを主と信じて弟子たちを殺そうと意気込んでいたとき、特別なしかたで主イエスと出会い、直接召命を受ける。ガラテヤ書1章11節から2章にかけては、その次第をパウロ自らが語るところとして重要である。エルサレムの使徒団のかしらであるケファ(ペトロ)の方針を批判し、非難するあたりはもっとも緊張感があり、パウロの自らの使命に対する意識と情熱を示す箇所として心を打つ。このくだりで語られるパウロとペトロの間の緊張関係を思い起こしておくと、この絵の中で向かい合っているペトロとパウロの姿がより味わい深くなる。
 パウロはこれら先輩の使徒たちとの自分の違いを強く意識していた。復活したイエスが「月足らずで生まれたわたしにも現れました」(1コリント15・8)という言葉にもそれがほの見える。きょうの第二朗読になっている2コリント書12章7b−10節は、さらにパウロの告白的な内容を含む。「身に与えられた一つのとげ」(7b節参照)としてなんらかの病気か身体的疾患を暗示しつつ、これが思い上がることのないための戒めであると受けとめている様子、また宣教のさなかに直面せざるをえない「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まり」(10節)も、キリストを思えば、すべてが満足すべきことであると語る。キリストのゆえに「弱いときにこそ強い」と語るパウロの言葉は、後世の宣教師たちをどれほど力づけてきたことだろう。
 故郷の人々から理解されないイエスの姿を記している福音朗読箇所(マルコ6・1−6)も同様に、宣教師、時代の中で預言者として立とうとする者の支えになったであろう。人は自分の古いあり方から脱出し、脱皮し、たえずキリストに引かれて出て行く生き方へと召される。それは、しばしば、逆らいを受けることでもあり、逆境にも進んで入っていくことでもある……福音宣教にかける生き方、神に呼び出されて生きる者の生き方を、考えさせるきょうの聖書箇所である。この絵の中で、みずみずしく降り注がれる聖霊は、まさにそのような生き方のための力なのである。

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