『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年7月19日  年間第16主日 B年 (緑) 緑

2015年7月19日
キリストは、……十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェソ2・15-16 より)

十字架のキリスト
  ミサ典礼書 挿絵
  スペイン レウス博物館  14世紀
 
 直接には、きょうの第二朗読(エフェソ書2章13−18節)から、その15-16 節の「キリストは……十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」にちなんで、キリスト教の十字架磔刑図を掲げた。ミサ典礼書の挿絵であり、いつしか伝統となった奉献文の部の前に挟まれた絵であることが推定される。
 大変やわらかい光を感じさせる背景の図である。楽園の感じさえする。十字架が楽園の木に変わっているとも思わせる。十字架磔刑図におけるキリストの描き方の多様な変遷についてはしばしば触れているが、中世初期の「生きたキリスト」(復活の主、栄光の主)を十字架上に描くものから、しだいに「死んだ姿のキリスト」を描くもの(目を閉じ、身体を屈曲させる)に移行していくというおおまかな流れになり、中世後期以後になると「苦しむキリスト」として、傷つき、血を流す姿に写実的に迫る方向をたどる。
 14世紀のこの絵のキリストは、体の屈曲はそれほど強調はされていないが、血を多く描いているところに特徴がある。両手から流れる血、そして脇腹から流れ出る血、さらに足もとから流れる血である。
 脇腹からの血に関しては、ヨハネ福音書19章34節で「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」と叙述されるところが思い出される。教会の始まりがここにあり、洗礼と聖体の秘跡が暗示されるとした教父たちの解釈で有名になる箇所である。他方、手や足からの血は、十字架に付けられたという描写に基づく想像である。特に、足元からの血がどんどんあふれて地上に流れ出しているところの強調は、何か新しい意味合いを醸し出す。第2朗読のエフェソ書の箇所がここに生き生きと関わってくる。敵意や律法主義で支配されていた地上にキリストの十字架によって平和がもたらされたということを告げているからである。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2・13)と、「血」が鮮やかに飛び込んでくる。
 キリストの血によって、地上に平和が、新しいいのちがもたらされている。(向かって)左のマリアと、右の弟子ヨハネ(ヨハネ19・26−27参照)は、そのようにして洗われた地上に立つ「新しい人」(エフォソ2・15)の始まり、新しい人類としての教会の原型である。
 このキリストのうちに、きょうの福音朗読箇所マルコ6章30−34節と第一朗読箇所エレミヤ23章1−6節を結ぶテーマの一つ「牧者」の姿が見えてくる。イエスは地上の民の「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ 6・34)。イエスが民に対してまことの羊飼いとして臨んでいることが暗示され、ヨハネ10章の教えにつながる。この「深く憐れ」んだイエスの姿の先に十字架の道も見えてくる。神のあわれみのしるしとしての十字架、それをとおして地上に平和をもたらし、新しい人を造り上げる主キリスト、きょうの朗読の内容のすべては、この十字架のキリストに凝縮されている。このキリストの姿は、ミサにおいていつも現在のものとなり、聖体をとおして、我々は、その姿にあずかる。現代にあって「新しい人」、主に導かれる民、平和の福音の担い手とされていくのである。

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