『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年7月26日  年間第17主日 B年 (緑) 緑

2015年7月26日
なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった(ヨハネ6・13より)

パン屑の籠を前にするイエス
  モザイク イスタンブール
  カーリエ博物館  14世紀
  
 表紙絵を鑑賞しつつ、きょうのみことばについて黙想するために、確認しておかなければならないことがある。それは、B年はマルコ福音書を中心に読む年とはいえ、きょうの年間第17主日から第21主日まではヨハネ福音書の6章が読まれていくという一見変側的な期間になるこということである。これは、マルコが最も短い福音書であるために、ヨハネ福音書が補完的な役割をしているという意味もあるだろう。しかし、前後の主日で読まれるマルコ福音書の箇所と無関係にヨハネ福音書が挿まれているというわけではないことに注意しなくてはならない。先週の福音朗読箇所マルコ6章30−34節の続きの35−43節は、まさしくきょうのヨハネ福音書が語る五つのパンと二匹の魚で民を満たすというエピソードの並行箇所なのである。ここに配分の妙がある。マルコ福音書の流れで、このいわゆるパンの増加の奇跡に至るところで、ヨハネ福音書によって、その出来事を深く説き明かしつつ、「わたしが命のパンである」(ヨハネ6・35)と自らをあかしする内容へと展開していくからである。
 さて、表紙絵を見ると、きょうの福音朗読箇所の終わり近く「なお残ったバンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(ヨハネ6・13)をテーマにしていることがわかる。パンの屑を集めなさいというイエスの命令に従った弟子が報告している様子も描かれている。
 この残ったパン屑の多さへの言及は、第一印象として、イエスがもたらした食べ物の恵みの異常な多さを物語るものとして、奇跡の素晴らしさを強調する要素のように思われる。確かにその面もあるだろうが、福音書がどれも記す(たとえばマルコ6・43)こと、そして、きょうの第一朗読に選ばれている列王記下4章42−44節でも、末尾の「主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した」という部分で、福音朗読と第一朗読のテーマ的対応が示されていること(主題句参照)から、もっと重要な意味を含んでいることも推測される。その意味については、いろいろな解釈の道があろう。籠の十二という数が、イスラエルの民を構成した十二部族、そして新約の民の柱となる十二使徒の十二と通じていることから、神の限りない恩恵によって生まれる神の民を象徴するのではないかと考えていくことができる。意味深い見方であろう。ただどうしてパンの屑が民の象徴となるのだろうか。
 聖書の解釈としてよりも、ここでは、表紙絵からの連想として考えてみたい。きょうの表紙絵の場合、この画面に区切られている範囲では、福音のエピソードにおけるイエスと弟子とパン屑の籠という以上に、イエスがすでに栄光のキリストとして光輪が描かれ、神の言葉の象徴である巻物を握り、弟子にパンを渡している。それはすでに聖体のようである。イエスと弟子たちの前に描かれているのは、こう見ると、聖体の限りない恵みによって養われる新約の神の民を象徴するパン屑の籠ということになる。
 読み込み過ぎかもしれないが、さらに感じられてくるのは、ここのパンが巻物で象徴される神の言葉と関連していそうなことである。実際、このエピソードに出てくるパンは人々の空腹を満たす以上のものであった。それは、神の恵みの限りなさを表していると考えられたのだが、それ以上に、ここでのパンは、神の言葉のしるしなのではないか。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」(マタイ4・4)とイエスは荒れ野での誘惑に対して言った。パンの屑は人の空腹を満たす以上のもの、その素晴らしさ、完全性が十二という(籠の)数で暗示されるところのものである。人を満たす以上の恵みである神の言葉の意味が含まれているのではないだろうか。その神の言葉自身であるキリストによって、まさしく新約の神の民は養われていく。
 この奇跡の意味するものは、底知れない。それがミサの神秘にもつながっていることはいうまでもない。

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