『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年8月2日  年間第18主日 B年 (緑) 緑

2015年8月2日
見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる(出エジプト16・4より)


天からのパンを集めるイスラエルの民
  ディルク・ボウツの祭壇画
  ベルギー ルーヴァン
  サン・ピエール教会  15世紀


 きょうの表紙絵は、第一朗読の箇所(出エジプト記16・2-4, 12-15) にちなんでいる。イスラエルの民が天からのパンで養われた場面を描くものである。この食べ物は、同じ16章の30節で「イスラエルの家では、それをマナと名付けた」。この箇所のことが念頭に置かれて、きょうの福音朗読箇所ヨハネ6章24−35節のうちの31節で、群衆が「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました……」と言い、これにこたえて、イエスが「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる……」(32節)と展開し、いよいよ「わたしが命のパンである」(35節)と自らについてのあかしを始める。天からのパンの与え主は父である神自身だという教えと、イエス自らがその神が与えてくださる命のパンであるという教えがここに含まれている。どちらも驚くべき内容であり、我々にとってはキリストの神秘と聖体の神秘についての教えがここに示されるということになる。
 このような見方から、旧約の民を養った食べ物マナは、命のパンであるキリストに対して「予型」(または「前表」)と考えられるようになる。キリストを前もってあかしする旧約のしるしという意味である。それは、命のパンそのものであるキリストから、新約の民に糧として与えられる聖体にとっても「予型」であるといえる。きょうのミサにおける第一朗読から福音朗読、そして感謝の典礼における聖別へという展開がいかに救済史の全体像を眺めさせてくれるものであるかがわかる。
 さて、このような聖書に対する予型論的見方を前提として、キリスト教絵画においてもマナの場面は聖体の制定となった最後の晩餐に関連づけられて描かれることが多い。
 15世紀初期フランドル派の画家ディルク・ボウツ (1410年か1420年頃生まれ、1475年没。オランダ人である彼の名前は、日本語の文献資料でもさまざまに表記されていることに留意) のこの絵は「聖体の秘跡」の祭壇画と呼ばれるもので、中央には聖体の制定である最後の晩餐の場面が大きく描かれている。その両脇に左右二段ずつ合計4つの場面が聖体の予型の場面として配置されている。(向かって)左側の上段には、サレムの王メルキセデクがパンとぶどう酒をもってアブラム(アブラハム)を迎え、祝福する場面(創世記14・17−20)、下段には、出エジプト記12章 1−28節に関連して、イスラエルの民(新約の時代におけるユダヤ人)の過越祭の食事の光景が描かれている。右側の上段にきょうの表紙絵のマナの場面、下段には来週の第一朗読の箇所となるエリヤが御使いによって養われる場面(列王記上19・4−8)である。
 聖体の秘跡について、制定となる最後の晩餐の出来事だけでなく、その背景にある旧約のさまざまな出来事を思うことで、神の計画の深さや広がりを思うことができる。聖体の秘跡は単にキリストと我々の間を結ぶものとしてあるだけでなく、天地創造から始まり、万物を完成へと導く長い道のりの中で受けとめていくべきものである。現在のミサの聖書朗読は全体として、そのような救いの歴史という大きな展望の中で、我々がささげるミサの「交わりの儀」の意味を深く味わわせてくれるものなのである。聖体拝領と呼ばれるキリストの体の拝受は、そのような大きな歴史の中に招かれている我々一人ひとりのキリストとの交わりでもあり、神の民としての互いの一致の実現でもある。どれほど素晴らしい恵みであろう。この日の聖書朗読は、尽きることのない黙想のための明かりとなり、旧約の出来事を生き生きと想像しながら描くこのような絵画も、その黙想を助けてくれるだろう。

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