『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年8月9日  年間第19主日 B年 (緑) 緑

2015年8月9日
「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには絶え難いからだ」(列王記上19・7より)

預言者エリヤ
  ロシア・イコン
  個人蔵     17世紀
  
 B年の年間第17主日から21主日まではヨハネ福音書6章が読まれる。イエスが自分自身を「天からのパン」「命のパン」であるとあかしする内容の箇所である。きょうの福音朗読箇所の最後の51節では「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という自分自身についてのあかしと、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」という聖体についての教えが続いて出てくる。その前には、先祖たちが養われたマンナのことが言及されていて、旧約の出来事、キリスト自身、そして聖体の秘跡という三つの事柄の相互の関係があかしされている。先週から続く聖体の神秘に関する重要な箇所である。
 きょうの第一朗読では、古くから教会において聖体の秘跡を前もって示す旧約の出来事(「予型」と呼ばれる)の一つと数えられてきた、エリヤが御使いによって養われたというくだりが読まれる。列王記上19章4−8節である。先週の表紙絵である15世紀の祭壇画でも聖体の秘跡の予型としてマナの場面の上に描かれていた。きょうの表紙は、ロシア・イコンの描くエリヤを主題とする図である。中央にエリヤの姿が大きく、その周りにエリヤの生涯に起こった意味深いエピソードが描かれている。
 上の大きく赤い色の部分は、「火の戦車が火の馬に引かれて現れ」るなか、エリヤが天に上って行く場面(列王記2・9−12)、左端にはエリヤの献げ物の場面(同上18・30−40)、その下には、急流の岸辺でエリヤが烏に養われる場面(同17・2−7)、右側には、エリヤがマントを投げてヨルダン川の水を分ける場面(同下2・8)。列王記上の終わりから列王下の初めまで、さまざまな出来事と絡んで登場するエリヤのことを、この機会にまとめて読んでみてもよいかもしれない。そして、左下に描かれているのが、きょうの第一朗読で読まれる場面、命を狙われて絶望に瀕していたエリヤが主の御使いによって「起きて食べよ」と告げられ、パン菓子と水によって元気づけられるという場面である(列王記上19・4−8)。主の御使いをとおして与えられた食べ物と水、「起きて食べよ」という呼びかけが、救いの歴史の今において、キリストの体と血によって神の民が養われるところの聖体の秘跡のはるかな予型としてここで想起されている。
 エリヤは、御使いによる養いと力づけの結果、「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」(8節)とある。この一文も意味深い。「四十日四十夜」は、モーセが幕屋の律法を受けるためにシナイ山にいて断食をした日数と同じである(出エジプト記24・18、申命記9・9,18参照)だけでなく、四十という数字は、イスエラルの民が荒れ野を旅した年数(申命記8・2 参照)でもある。四十はこうして苦しみや試練に関連すると同時に、神からの導き、保護、神への回心にもつながる象徴的な数となる。イエス自身、荒れ野でサタンの誘惑にあう日数(「四十日間」マタイ4・2、マルコ1・13、ルカ4・2 ) であるところで、その意味は頂点を極める。受難予告の始まりとともに起こったイエスの変容のとき、両脇にモーセとエリヤが現れたことには試練と断食の「四十日」のつながりが一つの要素になっている。
 さて、エリヤはこのように、キリストの生涯の予兆という面をも含みつつ、より直接には、洗礼者ヨハネの予兆という意味ももつようになる。それは、マラキ書3章23節では「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日の来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」といわれるように、神の最終的な介入(裁きでもあり、救いでもある)の先駆けとしてエリヤは再来すると、ユダヤの民は一般に信じるようになっていた。新約前夜のそのような雰囲気の中で、洗礼者ヨハネは「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」(列王記下1・8)といわれるエリヤの風体さながらに登場する(マルコ1・6参照)。他方、エリヤが天に上げられたことがキリストの昇天の予型であると解釈されることがあるなど、エリヤという人物は、洗礼者ヨハネの登場からイエスの洗礼、荒れ野の試みを経て始まる宣教の生涯、その極みとなった死と復活、そして昇天と聖霊降臨に至るまでの、新約的な救いの出来事を暗示させるものを多分に有しているのである。
 エリヤの姿のうちに、洗礼者ヨハネもイエスも見えてくる。そのように想像力を働かせつつ、きょうのイエスによる聖体の意味を説き明かしに注目したい。「起きて食べよ」という御使いの言葉は、たえず我々にキリストとの出会い、入信の歩み、そして聖体を糧としていただく「きょう」に目を向けさせる。

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