『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年8月16日  年間第20主日 B年 (緑) 緑

2015年8月16日
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である(福音朗読主題句 ヨハネ6・55より)

十字架の中に描かれたキリスト
  モザイク(部分)
  ラヴェンナ、サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会 6世紀
  
 イエスが教えを告げる場面にちなむ表紙絵を考えるのはいつも難しい。弟子や人々を前にして語るイエスの図というものは、もし選ぼうとすると、石棺彫刻における教師としてのイエスの図のようなものになるだろう。その情景にこだわらなくてよいとすると、むしろ、すべてのキリスト像、しかも、真正面を向いて我々を見つめているような顔のキリスト像であるならば、いつも教えを語るイエスの顔として仰いでいくことができる。
 今回も、そのように考えて、ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会(6世紀)の内陣の天涯モザイクの一部分にあるキリストの顔を選んでみた。ここは、全体に星が散りばめられた青いモザイク面に、金色の十字架が描かれているところである。全体の中ではほとんど目立たないのだが、その中央にこのキリストが描き込まれている。天上におられるキリスト、神の右の座におられるキリストの姿と思われるが、それが、大きな十字架の中に位置づけられているというところで、暗に十字架上での受難と死を経て、復活し、天に昇り、神の右の座に着かれたという、主の過越の神秘全体が暗示されている。
 永遠の座に着かれたキリストの姿に目を向けるとき、きょうの福音朗読箇所(ヨハネ6・51−58)で言われる「永遠に生きる」(6・51、58)や「永遠の命」(6・54)という語句を味わうヒントになるのではないだろうか。この6章の教えは聖体の神秘に向かっていく教えである。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)−−これらの言葉の意味するものは実に深い。聖体が、何を目指して行くための糧であるか、どのような「まことの食べ物」「まことの飲み物」である(55節)か、が端的に告げられているのである。永遠の命、復活へと向かうものであり、キリストと我々とが相互に内在し合うこと、これがミサで「交わりの儀」といわれるときのキリストと我々の交わりの意味を説き明かすものであることはいうまでもない。
 聖体というとき、我々は、何を思い浮かべるだろうか。ホスティアやカリスの形態を思い浮かべることが多いかもしれない。しかし、本質的にはつねに天上のキリスト、永遠に生きておられるキリストの姿が仰がれるべきものである。これに関連して注目したいのは、『典礼憲章』8項である。このようなことを語っている。「地上の典礼において、われわれは天上の典礼を前もって味わってこれに参加している。天上の典礼は、旅するわれわれが目指す聖なる都エルサレムにおいてささげられており、そこには、キリストが聖所と真の幕屋の奉仕者として神の右に座しておられる」
 ここには、地上の典礼は、目指しているところの天上の典礼を前もって味わい、それに参加するものなのだということ、そして典礼を究極的に司っているのは神の右の座におられるキリストなのだということが明記されている。我々のささげ、経験している典礼とは、そこでつねにキリストと全教会が働き、奉仕し合っているものだということは、ミサの式文のおのおのを味わうときに十分すぎるほどに示されてくる。
 きょうの福音とミサの神秘をともに味わうためのヒントとしてこのキリストの顔を心に刻んでみたい。

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