『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年8月30日  年間第22主日 B年 (緑) 緑

2015年8月30日
皆、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい(マルコ7・14より)

荘厳のキリスト
  エマイユによる祭壇前飾り(部分)
  スペイン サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖堂 12世紀
  
 きょうの福音朗読箇所に関しても、先々週と同じように、表紙絵にするには悩むところであったが、ここでは「荘厳のキリスト」と呼ばれるキリストを主題とする工芸品(祭壇の前の部分のエマイユによる装飾物)を観賞しようと思う。
 図そのものは、天上のキリスト、玉座のキリストをイメージするもので、アーモンド型の光背に包まれるようにして、玉座に座すキリストが描かれる。右の手は、神の権威を示し、それを及ぼそうというしぐさ、左手には神のことばの象徴としての書がある。キリストの肩の両側にはアルファとオメガが書かれており、黙示録22章13節の言葉をただちに想起させる。
 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(22・12-13)それは、天上におられつつも、終わりのときに地上に再び来られ、裁きを行うとの約束のイメージである。栄光の主を囲むように四隅に福音書著者を象徴する四つの生き物が描かれている、左上「人」(マタイの象徴)、右上「鷲」(ヨハネの象徴)、左下「ライオン」(マルコの象徴)、右下「牡牛」(ルカの象徴)である。これらの象徴は、エゼキエル書1章に登場する四つの生き物、それを踏まえた黙示録4章6−8節の四つの生き物に基づいており、黙示録では、これらがまさに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(4・8)とたえず神を賛美している。
 キリストは初めであり、終わりである方ともいわれ、「かつておられ、今おられ、やがて来られる方」ともいわれる。この「やがて」の来臨に向けて備えることが、信者の生き方として問われ、呼びかけられる。待降節第一主日で必ず呼びかけられる「目を覚ましていなさい」のメッセージである(マルコ13・32−37、マタイ24・36−44参照)。キリスト者とは、キリストの最後の到来に向けて備えて生きる者ということになる。
 そのように考えていくときに、きょうの福音朗読の箇所で、人々が人間の言い伝えにとらわれ、神の掟、神の御心に向かい合う意識を失ってしまっていることに対して、イエスがはっきりとそれらを偽善であると宣告している姿は、裁きを行うために、やがて来られる主のイメージに連なっていくのではないだろうか。もちろん、そのキリストの姿のうちには、先週のペトロの信仰告白でいわれたように「永遠の命の言葉」がある。きょうの使徒書の朗読ヤコブ書でも「真理の言葉」(ヤコブ1・18)「心に植え付けられた御言葉」(21節)のことがいわれている。この御言葉のうちに、すべての善を生み出す力がある。
 福音朗読の後半で、イエスは、人間の心から悪が出て来て人を汚すことを教えているが、これは、戒めのようでいて、すべての善は神から来ることを語っている解放の福音にも響く。神の言葉のうちに、神の言葉であるキリストのうちに、すべて善をもたらし、人を汚れから清め、聖なるものとする力があるという福音が暗に告げられているともいえるのである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という、マルコによるイエスの宣教の最初の声(マルコ1・14)を思い起こすべきだろう。この「時」は終わりの時のイエスの来臨へと向けられている。その道程の一つの道しるべとして、きょうの教えを受けとめてみたい。
 ちなみに、上述の四つの生き物による神の賛美「聖なるかな……」は、我々のささげるミサにおいても、「感謝の賛歌」の一部をなし奉献文の始まりで歌われる。すべての天使と聖人たちとともに歌われるこの賛歌は、地上の典礼が天上の典礼に連なり、それと結ばれ、それに参加していくことのしるしである。
 荘厳のキリストの図は、福音朗読にも、ミサそのものにも光を注いでくれるだろう。

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