『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年9月6日  年間第23主日 B年 (緑) 緑

2015年9月6日
 神は来て、あなたたちを救われる (イザヤ35・4より)

口の利けない人をいやすイエス
  フレスコ画
  スイス ミュステール修道院  9世紀
  
 ミュステール修道院とはスイス東部グラオビュンデン県にあるベネディクト会修道院。 800年頃、フランク王国(カロリング朝)で重きをなしたクールという町の司教が創建し、やがて財産や人事を国王が管轄する王国修道院となった。この修道院の中心となる聖堂は洗礼者ヨハネに献堂されている。その壁にイエスの生涯の諸場面が描かれ、表紙絵はその一部である。古い絵で輪郭線や彩色もはっきりしなくなっているが、中央のキリストといやされる相手の人物が両脇の人物より大きく描かれ、しかも、相手の人物の口に伸ばされたイエスの手のしぐさ、それを受けるその人物の姿勢が、非常にダイナミックに描写されている。美術史的には、ローマのフレスコ画の伝統を受け継ぎつつ、10-11 世紀(オットー朝時代)に開花する写本芸術に至る過渡的段階を示す作品例といわれる。聖書が語るイエスの出来事を真摯に読み取ろうとする写本画の創作姿勢がよく窺えるものである。丹念に聖書を読み、黙想し、キリストの神秘を自分たちの心の中に思い描いていった修道者たちの無言の営みを感じてみたい。
 救い主であるイエスと、イエスとの出会いによって救われる人。この両者の姿勢は、ただたんに口の利けないことのいやしという出来事にとどまらず、キリストと我々人間との出会いのすべてに思いを向けさせる。絵は、そのような働きがある。一つの場面を描きつつも、具象的に表されている事柄のより深い次元を考えさせるものなのである。絵のもつそのような機能を思い浮かべながら、聖書の本文に向かうと、逆にそこで物語られる出来事が、同じように、もっと深くもっと広い次元のことを表していることに気づかされていく。実は、ミサの聖書朗読は、そのように、福音で物語られる出来事をより深くとらえられるように導く構造になっている。主日の第一朗読に配分されている箇所(復活節のほかは原則として旧約聖書)は、福音朗読と重ね合わせてみるとき、その背後に働いている神の救いの計画全体に目を開かせてくれるのである。
 きょうの例で見てみよう。福音朗読箇所マルコ7章31−37節が物語る、イエスがガリラヤ湖畔で出会った舌の回らない人のいやしというエピソードも、その人にとっての個別の出来事というだけにとどまらない。そのことを第一朗読のイザヤ書35章4−7節が示す。すなわち「神は来て、あなたたちを救われる」(4節)しるしとして、見えない人の目が開かれ、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌う・・とある(5−6節)。この場合の「あなたたち」はバビロン捕囚を体験したユダの人々を指しており、彼らが神を悟る目、神のことばを聞く耳、神を礼拝するために集まる足、賛美する口を回復するということが暗示されているのである。それは、神のもとに立ち帰り、神との交わりによって生きる民が復興されるとの力強いメッセージである。
 この箇所を念頭に置いて、福音の語る出来事を見ると、それがただ一人の人の救済例ではなく、救い主の到来による、神の民の復興、それ以上に、人類そのものが新たに神の民となるよう招かれていることのしるし、その時代の始まりのしるしであるという大きな展望が開かれてくる。そこで示されている新しい神の民の誕生は、まさしく今、我々の中でも続いている。この絵の中の、イエスの姿といやされる男の姿は、救い主と人類そのもの、キリストと神の民の関係の始まりを示すしるしとして味わっていくことができよう。

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