『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年9月13日  年間第24主日 B年 (緑) 緑

2015年9月13日
人の子は必ず多くの苦しみを受け……(マルコ8・31より)

十字架上のイエス(部分)
  木彫 イタリア アッシジ 
  サン・ダミアーノ教会  17世紀
  
 この木彫作品は、フランシスコに縁の深い、アッシジのサン・ダミアーノ教会にあるもので、インノチェンツォ・デ・ペトラリアという名のフランシスコ会修道士でもある彫刻家(16世紀末誕生、1648年没)の作品である。中世末期から磔刑図・磔刑像の主流となる、苦しむイエス、死せるイエスの姿をかなり写実性濃く表現した作品のその横顔をクローズアップである。きょうの福音を味わうヒントに鑑賞したい。
 マルコの福音書は、8章におけるペトロの信仰告白(8・27−30)ときょうの朗読箇所に含まれるイエスの最初の受難予告(8・31)を転回点として、それからの叙述はイエスの受難へと進んでいく。受難予告に続く教えの中で、印象深い「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8・34)という言葉が発せられる。9月のこの時期が、春の四旬節や聖週間の頃との対角線的に「十字架」を浮き彫りにされることは大変意味深いものがある(その中に、9月14日の十字架称賛の祝日もあることも意味深い)。イエスの受難の道を意識したなかで、イエスの弟子として生きるのはどういうことであるかが、教えられていくのが、これからの時期の福音のテーマとされていく。
 ちなみに、「自分の十字架を背負って……」ということば含む福音朗読がABC年の各配分でどのように出てくるかを調べてみると、次のようになっている。A年は、年間第22主日(大体8月末になる)でマタイ16章21−27節、ちょうどきょうのマルコの福音朗読箇所(9・22-27)と並行する箇所が読まれる。同じ内容がA年でもB年でも欠かさずに読まれるところに、このメッセージの普遍的な意義が考慮されていると思われる。B年はきょうの年間第24主日。C年の場合は、年間第23主日に読まれるルカ14章25−33節である。やはり、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・27)と告げられる。いずれにしても、どの年も年間主日の後半において、我々自身の背負うべき十字架を意識させる福音が告げられることになっていることに留意したい。
 イエスは神の国(支配)、神ご自身の力の働くさまを自らの存在と行いをもって示し始めた。救い主(メシア)であることの顕現である。しかし、受難予告は、その使命は、地上的な栄誉で満ちたものにはならず、多くの苦しみを受け、排斥され、殺されてこそ実現するのだという、驚くべき内容となっている。「復活」が現実味をもって告げられるのもここからである。きょうの朗読箇所で、受難予告は、それまでの福音宣教の活動を踏まえているので、前後の位置づけをしっかり見定めて受けとめることができるが、それに続く「わたしに従いなさい……」の教えは、その中の「自分を捨て……」とか「自分の十字架を背負って……」という語句によって、一見、脈絡をつかみにくかもしれないが、あとの「わたし(=イエス)のために命を失う」「福音のために命を失う」ということばによって、受難予告とのつながりがはっきりと見えてくる。 このような考察は、表紙に掲げたような、十字架で磔にされているイエスの図像を見る上でも重要な前提となる。イエスの十字架での姿や顔をさまざまなニュアンスをもって描かれていく。それらを前にしても、我々が心にしっかり留めなくてはならないのは、十字架の苦しみを経て復活し、このことを通して神の救いの計画を実現していったキリストの神秘そのものである。
 そして、イエスが磔にされた十字架が、我々も自ら背負うべき「十字架」の象徴、福音のために命をかけていくように招かれ、導かれている我々それぞれの道のしるしであることを意識すべきであろう。彫像に表現されるイエスの苦しむ顔は、現在の我々のどのような状況の象徴であろうか。キリストの弟子として生きる上で、今、世界や社会から受けている苦しみは何であろうか。そのような問いを深める黙想のよすがとしたい。

 このページを印刷する