『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年9月20日  年間第25主日 B年 (緑) 緑

2015年9月20日
「彼を不名誉な死に追いやろう」 (第一朗読主題句 知恵の書2・20より)


侮辱を受けるイエス
  二枚折り書き板装飾
  アトス ヒランダリ修道院  14世紀
  
 アトスのヒランダリ修道院(12世紀末の創建)で造られた二枚折り書き板装飾は、しばしば、表紙でも紹介してきた。福音書にのっとったキリストの生涯の全24場面があることで、ミサの福音朗読と呼応することが多いためである。
 アトスとはギリシア中東部・エーゲ海に突き出た一半島の南にある山だが、この半島全体に散在する修道院群全体の名称となっている。8世紀から9世紀にかけてビザンティン帝国で聖画像(イコン)破壊論争が起こったとき、イコンを擁護する修道者たちがここに逃げ込み、修道生活を始めたのが始まりである。東方教会の霊性の中心地の一つとなり、現在も自治権をもっていることで知られる。キリスト教図像への思いと霊性が結びついた美術で有名である。「二枚折り書き板」(ギリシア語で「デュプティコン」)とは、ビザンティン典礼の聖体礼儀(ミサ)において、奉納物をささげた人たちの名前を記した二枚折りの板のことである。その表紙が、金属・エマイユ・宝石などで飾られた。全24場面のうち特に受難と復活に関する場面が細かく分けられているのが特徴である。円形の小さな場面の中で、一つの出来事を描くという構図の取り方が興味深く、全体として暗い中に背後から金色の光が照らすような体裁は幻想的でさえある。人物の表情にも、こまやかな感情表現への志向性が感じられる。
 さて、イエスの受難に関する福音書の記事は、受難の主日でA・B・C各年がそれぞれマタイ、マルコ、ルカから読み、聖金曜日の主の受難の祭儀では、ヨハネ福音書によって読まれる。したがって、受難の各場面を描く絵を『聖書と典礼』で詳細に掲載する機会はなかなか少ない。きょうの表紙絵のような兵士から侮辱を受ける場面の絵を掲げる機会は実質的にはないが、福音朗読の内容を拡大鑑賞するという試みとして、この場面の図を表紙に掲げている。福音朗読でいえば、マルコ9章31節の受難予告と関連する。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」が暗示する、引き渡されての侮辱をイメージさせるからである。さらにヒントになるは、第一朗読の知恵の書である。ここでは、「神に逆らう者」の言葉「本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」(知恵2・18)が、まさに逮捕されたイエスに向けられた侮辱を想起させる。たとえば、マタイ27章40節「神の子なら、自分を救ってみろ」、42節「他人は救ったのに、自分は救えない」などである。
 表紙絵作品は描写としては、福音書の叙述と必ずしも合わないかもしれない。しかし、イエスが衣服を脱がされ、自由を奪われ、痛めつけられるという構成は、裁判に続く侮辱行為の数々を連想させて余りある。知恵の書が語る「不名誉な死」(知恵2・20)の様がよく表れていよう。この語は、元来は「不格好な死」を意味する。フランシスコ会訳2011年版では「恥ずべき死」となっている。確かにここに描かれているイエスは、上衣を脱がされ半身裸であり、その姿勢もかなり屈辱を感じさせる。人間的に見れば、確かに不格好であり、恥ずべき、不名誉な姿である。しかし、ここにまさに、神の意志にひたすら従っている者の姿が表れていることを見なくてはならない。きょうの福音朗読で再び言及されている受難予告の意味がそこにある。神に従う生き方を教えたイエスは、人間の側からの反発のただ中に置かれていく。そこは弟子たちさえついて行けなかった孤独の極みであった。その果てに来る、(人間的には)悲惨と残酷と不名誉しかない十字架死に至る道は、やがて、神の栄光の輝きに満たされていく。この徹底した「逆説」の出来事を予兆させるのが、イエスの弟子たちへの次の言葉なのではないだろうか。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9・35)。ここには、キリストに従う者の生きる現実が告げられているともいえる。「不格好」という語をヒントにするなら、キリスト者の生き方とは「不格好」な生き方ということになる。キリストのように生きるとは、不格好に生き、不格好に死ぬことにあるのかもしれない。

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