『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年10月11日  年間第28主日 B年 (緑) 緑

2015年10月11日
 人間にできることではないが、神にはできる (マルコ10・27より)

全能者キリスト
  イコン
  アトス
  ヒランダリ修道院 13世紀後半

 イコンのキリスト像は、永遠の主としての姿を我々に仰がせてくれる。福音の箇所が述べる場面に登場する姿のイエスではないが、そこで教えを語られる主、「神の言(ことば)」としてのキリストの姿を、イコンのキリスト像がいつも示している。
 きょうの福音朗読箇所では、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10・17)との問いから始まる対話の中で、イエスは、具体的には、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と告げる。永遠の命を受け継ぐとは、言い換えれば、神の国に入ること(25節参照)であるが、この問いに答えての、裕福な人に対する場合のメッセージであるといえよう。同様のメッセージがあとで(長いほうの朗読で読まれる10章28節〜30節の中で)、「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨て」ること(29節)としても言及されている。自分に生きることではなく、神に生きることの決断を求めるイエスの呼びかけである。
 この教えに関して、アブラハムへの祝福(当初アブラム。創世記12章、17章など参照)が思い起こされる。そこで示され始めるように、イスラエルの民にとって、家族や子孫が増えること、土地・財産に恵まれることはそれ自体が神の祝福と考えられてきた。この観念はイエスの時代にも続いていたようである。そのような価値観がある中で、財産も家族も捨てなさいという、イエスの呼びかけはまさに驚天動地のものだった。神の民であるとの意識を担ってきたユダヤ社会の価値観に、それを覆すようなメッセージが、イエスの口から本来の神のみ心であるとして語られる瞬間である。
 ここに開かれた新しい生き方の可能性は、おそらく、その後の教会の歴史の中で、神の国のための独身という生き方や、貧しい人々とともにある清貧の生き方を形成していく出発点となっていく。大事なのは、そのような生き方が人間の力でできるものではなく、あくまで神がなさしめること、神が人にさせてくださることだということである。イエスの言葉にそのような諭しが含まれている。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。諭しでもあると同時に限りない力づけである。
 我々が人間として、何かしなくてはならないことを呼びかけているような言葉の背後にも、つねに、人間が何かをするのではなく、むしろ、神の前に無になること、神にすべてを委ねることへの呼びかけが根本にある。その意味で自らのうちに神の現存を示す、全能者であり救い主であるキリストのイコンは、福音を聴くときに、いつも前にして仰いでよい姿である。永遠の主としてのキリストは、いうまでもなく、地上におけるミサを司ってくださっている方である。
 ちなみに、このキリストは、その右手は祝福のしぐさをしており、左手にはみことばの象徴である本がある。その表情も、神のいつくしみ深さと同時にある種の厳しさをも感じさせる。きょうの第二朗読のヘブライ書4章12−13節にある「神の言葉は、……どんな両刃の剣よりも鋭く、……心の思いや考えを見分けることができます」という箇所が思い起こされる。そのような方としてキリストは我々とともにおられる。その姿を思いながら、今の時代の中で神の国を受け継ぐ生き方への招きを受けとめていきたい。

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