『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年10月18日  年間第29主日 B年 (緑) 緑

2015年10月18日
 人の子は、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(福音朗読主題句 マルコ10・45より)

十字架のキリスト
  ミサ典礼書  挿絵
  スペイン トルトサ司教座聖堂 12世紀

 きょうの福音朗読箇所であるマルコ10章35−45節(長い場合。短い場合は、42−45節)は、三回目の受難予告にすぐ続く箇所である。その予告は、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10・33−34)とかなり具体的である。受難予告だけでなく、復活の予告であることが重要であろう。この予告を背景にしてのきょうの福音であることから、受難の結末にあった十字架磔刑の図を念頭に置いておくことも一つの味わい方になる。それは、朗読箇所の結び「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10・45)と語られるイエスの使命の成就を示す図でもあるからである。
 キリストの十字架磔刑図は、数え切れないほどある。その基本的な構図は、ヨハネ19章25−27節をもとに、マリアと使徒ヨハネを両脇に配するものが多い。十字架の横木の上には、一般に太陽と月のしるしが描かれるが、この表紙絵の場合は、太陽(右)と星(左)を示すような仕方で、しかも天使が描かれている。基本の要素を含みながらも、個々の描き方には作者のアイデアや工夫が反映されていることがわかる。それらにも目を配りながら、ここに広がるイメージを踏まえた上で、聖書の言葉のさまざまな意味合いを考えながら、十字架の神秘を味わうことをお勧めしたい。
 イエスの姿を見てみよう。その頭は下に向き、からだもやや屈曲しているところから、すでに死んだキリストを描いていることは感じられる。それでも、流血は描かれておらず、苦しみは強調されていない。静かな閉じられた目が、我々の見る目を深い静寂へと引き込んでいく。横木に架けられたイエスの両手は、ほぼまっすぐに伸びている。身体の線もわずかに屈曲しているとはいえ、むしろ精一杯上に向かって伸ばされているようにも見える。すべてをささげ尽くしているイエスの姿として印象づけられる。そ見みると、横に伸ばされた両手両腕が、万人に祝福を贈っている動作のように思えてくる。すべての人の贖い(「身代金」)として自らの命を献げきっている姿として感じ取ることができるのである。
 この絵で目立つのは、右側の使徒ヨハネを包む紫色の背景である。ヨハネの目は下を向き、戸惑っているようである。イエスの死を嘆く表情なのか、十字架死という出来事に戸惑っている姿なのか。神秘の前で闇に陥っているという意味合いが紫色の背景に込められているのだろうか。
 それに対して、マリアの姿勢やしぐさは、この神秘の意味をすでに察していて、キリストのからだを万人に指し示しているように見える。救い主としてのキリストをしっかりとあかししている姿ともいえようか。救いと信仰の確信に満ちているさまが、その直立した姿から感じられる。

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