『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年10月25日  年間第30主日 B年 (緑) 緑

2015年10月25日
 「わたしは、目の見えない人も、歩けない人も、慰めながら導く」(第一朗読主題句 エレミヤ31・8−9より)

預言者エレミヤ
  ミケランジェロ画(部分)
  バチカン システィナ礼拝堂 一五〇八−一二年

 きょうの福音朗読箇所は、イエスがバルティマイという名の盲人をいやす場面(マルコ10・46−52)。これを描く聖書写本画も少なくないが、今回は、第一朗読でエレミヤ書31章7−9節が読まれることにちなみ、有名なシスティナ礼拝堂天井画にあるミケランジェロ画のエレミヤを掲げてみた(部分)。イエスのみわざを長い救済史の中で受けとめて黙想するよすがとするためである。ここのエレミヤは下を向き、目を閉じ沈思している。憂いに満ちた表情といえるかもしれない。自らも苦難を味わった預言者の一面を際立たせているのだろう。
 さて、第一朗読は、紀元前720 年にアッシリアに滅ぼされた北のイスラエル王国がまもなく回復されるとの預言である。「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し」(エレミヤ31・8)と、アッシリアに連行された民を連れ戻すという意味で民の回復を予告する。ここで連れ戻される民の中には「目の見えない人も、歩けない人も、身ごもっている女も、臨月の女も共にいる」と告げられる。あらゆる弱い状況の人々も共に連れ戻されるということで、この帰還が解放であること、救いであることが明らかにされる。
 このような内容のゆえに、きょうの聖書朗読では、福音箇所での目の見えない人のいやしと関連づけられている。その対応は、今年の年間第23主日の福音朗読と第一朗読の関係に似たものがある。イエスがガリラヤ湖畔で出会った舌の回らない人のいやしというエピソード(マルコ7・31−37)と、第一朗読(イザヤ書35章4−7節)の、神による救いのしるしとして、見えない人の目が開かれ、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌う……と告げられる箇所(イザヤ35章5−6節参照)との関連である。いずれも、旧約の預言を重ね合わせて福音を聴くとき、イエスと出会った人々の救いの体験記にとどまらない意味の広がりを考えさせられるようになる。この年間第23主日の聖書朗読においても、きょうの年間第30主日の聖書朗読においても、イエスによるいやしは、神の計画における神の民の回復、ひいては人類そのものの再生、新生の始まりのしるしであると受けとめることができるのである。
 さて、エレミヤの預言では「喜び歌い、喜び祝え」(エレミヤ31・ 7)と、喜びが強調される。救いが来ることの告知の中で、喜びをこめた神への賛美が呼びかけられている。しかし、その賛美は「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を」という願いと一体である。聖書的な信仰においては、神への賛美と神への願いの祈り(嘆願形式の祈り)は表裏一体のように結びついていることがここに明らかに示される。
 福音朗読におけるバルティマイの叫び「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10・47)、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(同48節)も、それを念頭において考えると、実は神賛美の裏返しであることがわかる。彼は神を知り、イエスにおいて神の現れを感じている。その神のみ心とみ力への信頼と賛美が「憐れんでください」という叫びに精一杯に込められているのである。すでそこに神は満ちあふれるほどに現存している。イエスの姿と言葉はまぎれもなくその現れである。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(同52節)という言葉は、その意味で限りなく、深く重い。
 きょうの預言と福音を通して浮かび上がってくる「喜び」は、その背後にある苦しみの深さによって、さらに高まっていくものであろう。両方の朗読の根底に感じられてくるのは、苦しみの果ての喜び、そして喜びの前提にあった苦しみという両面の心情である。エレミヤの預言の力強さを感じ取りつつ、表紙絵が表現するような苦悩の表情もともに心に留めておきたい。それは、ミサごとに「主よ、あわれみたまえ」という言葉をもって、神を賛美し、願いをささげ続ける、我々自身の心の中にも目を向けることにつながるだろう。

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