『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年11月1日  諸聖人 (白) 白

2015年11月1日
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a)

山上の説教
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)

  諸聖人の祭日とは、かつて「万聖節」とも呼ばれたように、すべての聖人を意味している。固有の祝日や記念日をもって祝われる聖人もいるが、それ以外のすべての聖人を祝うという意味もある。
 しかしながら、きょうの福音朗読箇所(マタイ5・1−12a)は、いわゆる山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである……」とイエスが告げられるところである。この福音の内容を踏まえて、諸聖人の祭日の意味を考えると、「聖人」「聖なる人」ということをより広げてとらえるように促される。
 教会において「聖」という称号を付されている人は、崇敬が公認された人という意味である。もともとは、多くの殉教者(信仰に殉じて命をささげた人)が関わりのある地域の教会で自然と追憶され、敬われるという形で聖人崇敬は自然に発生していった。キリスト教が公認された後、殉教者にちなむ大聖堂が建設され、巡礼といった行事が発展し、殉教日がその聖人の祝日・記念日とされて教会暦の一要素となっていく。
 その発展の中で9世紀頃から、ある人を聖人として崇敬することに対する公式認可という手続きが設けられ、教皇にその認可権があるという認識が育っていく。1588年には礼部聖省が設立されて列福列聖手続きが整備された。第2バチカン公会議後は、列聖聖省の設立(1969年)、その列聖省への改称(1988年)の過程でさらに整備されている (『新カトリック大事典』第4巻「列聖」参照)。列福、列聖、すなわちある人が「福者」、「聖人」の列に加えられるということは、具体的には福者として、あるいは聖人としての崇敬が公式に認可される(祝日または記念日を設定する)という意味である。
 どうしてこのことを確認したかというと、「聖」という称号や「聖人」ということを狭く考えてはいけないということを確認するためである。新約聖書のパウロの手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(ローマ1・7)ということが絶えず挨拶の中で記されている。「聖なる者」とは、信者そのもののことである。それは、神の呼びかけ、神の愛に気づいて信仰をもってこたえようとし、父・子・聖霊の名による洗礼を受けてキリストに結ばれた者、聖霊を受けている者のことを「聖なる者となった」人々と呼んでいるのである。
 このような「聖なる者」「聖なる人」とは、本来、全信者にまで広がりがあることを考えた上で、きょうの福音朗読箇所、イエスの山上の説教を見ると、ここで「幸いである」と宣言されている人々がもっと広いことに気づかれる。「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々」。まだ教会や洗礼というものの成立以前に、イエスが人々に向けて「幸いである」と、神からの祝福を宣言したということのうちに、これらの人々に対する「聖なる者」宣言がもっとも鮮やかに示される。
 カルペンティール師の絵は、まさにそのようなイエスの言葉に耳を傾ける人々の顔をぎっしりと描いているのである。人々の間にはなんら隙間もなく、キリストとも離れることなく重なり、あるいは密に接している。狭いスペースの中に描く工夫という以上の意味合いを感じてよいのではないだろうか。
 第2バチカン公会議の『教会憲章』は第5章に「教会における聖性への普遍的召命について」という章がある。すべての人が神によって神の聖性にあずかるものとなるよう呼び招かれていることをテーマとして、「神の民としての教会」という教会理解を聖性への召命という観点から述べるところである。聖なることは、聖職者・修道者だけでなく、すべての信徒にも関わっていることが重要視され、世俗に生きる信徒も聖性への招きに多様に応えていく生き方として信徒の召命と使命がうたわれるようになる。さらに、公会議は、キリストと出会わなくても、福音を知らずにしても、善意をもって生きている人々が神によって祝福されているという展望を示したことでも知られる。山上の説教の精神が今日的に表明されたものと考えることができよう。
 諸聖人の祭日が「幸いである……」というイエスのことばが告げられる日である意味は大きい。今もいつも我々に向けられている聖性への呼び招きを意識し、信者でない人のうちにも働く聖霊の息吹に心を向けていくことにしたい。

 このページを印刷する