『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2015年11月22日  王であるキリスト B年 (白) 白

2015年11月22日
わたしが王だとは、あなたが言っていることです (ヨハネ18・37より)

ピラトとイエス
  モザイク
  ラヴェンナ サンタポリナーレ・ノオヴォ教会 6世紀

  
 イエスの生涯図でも、最後に近い、このピラトの尋問とイエスとの応答の場面は、この6世紀のモザイクや写本画でも大きな関心をもって描かれている。
 このモザイクでも、ピラトの姿と、イエスの姿が対等に、というよりややイエスのほうが大きく描かれている。しかも、逮捕された身でありつつも、すでに尊厳ある主権者の衣をまとっているところに、すでにキリスト自身が王であることの強調が感じられる。
 ちなみに、10-11 世紀の朗読福音書の挿絵の中のキリストはひげのない姿で描かれているが、6世紀のラヴェンナのモザイクや、同時代の写本画(東方系)では、長髪でひげのある威厳ある姿で描かれている。これが、やがてイコンのキリスト像、中世盛期以降の西方のキリスト像の基であることも想像できる。
 さて、きょう福音朗読箇所は、ヨハネ18章33節b−37節であるが、ピラトとの出会い、尋問の箇所は、17章28節から38節まである。共観福音書における並行箇所はマタイ27章1−2節、11-14 節、マルコ15章1−5節、ルカ23章1−5節である。絵は、マタイの中で、ピラトが尋問のあと、判決に至る過程で手を洗ったこと(マタイ27・24)も加えて描いている。したがって、尋問から判決に至るまでのピラトとイエスの関わりのすべての内容を踏まえて描いていることがわかる。
 共観福音書では、「お前はユダヤ人の王なのか」とのピラトの尋問に、イエスは「それはあなたが言っていることです」と一言答えるだけである。それに対して、ヨハネ福音書は、その答えをさらに敷衍して、イエスのことばを詳しく示す。その中で、「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18・36)、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(同37節)という重要なメッセージが発せられる。表紙絵のモザイクにおける、イエスのしっかりと見開いた目は、このようなきっぱりとした自己啓示と響き合う。
 ヨハネ福音書が伝える、ピラトの位置や役割は、きわめて興味深い。自身の意図を超えて、逆説的にイエスの真実をあかししているとさえいえるからである。「わたしの国はこの世に属していない」(18・36)と重ねて告げるイエスに対して、ピラトは「それでは、やはり王なのか」(37)とつぶやく。ここは疑問形ではあるが、イエスがこの世に属さない国の王であることを確証するような雰囲気を伝える。同じように、「真理について証しするために……この世に来た」というイエスの言葉に対して、「真理とは何か」とピラトは言う。およそ真理への問いかけをもったことのないようなピラトの口に「真理」という言葉が上るだけでも、ピラトは、キリストによって、新たな次元、神の国の次元へと引き寄せられつつある様子に見えてくるのである。表紙絵の中の二人の間(背景)はすでに金色、神の栄光の象徴で満たされている。ちなみに「真理」と訳されているギリシア語の「アレーテイア」は、覆われることなく、明るみ出されていることを意味するが、これをヒントに考えるなら、神の国の現実がここにあふれるほどに現れているいう表現になっているのではないだろうか。
 このような描写のニュアンスを踏まえて、表紙の二人を見ると、ピラトがひたすら、王としての尊厳に満ちているイエス・キリストの存在を引き立てるような位置関係に思えてくる。いわば逆説的に「あかし人」として登場しているようなのである。ミサで唱えられる使徒信条でも、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」というふうに、名前が唱え続けられるピラトは不思議な存在である。自身の意図・意識を超えて、神の救いの計画の中で役割を果たした人といえるかもしれない。神の計らいの不思議に思いをめぐらしてみたい。

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