『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年1月17日  年間第2主日 C年 (緑) 緑

2016年1月17日
イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行われた  (福音朗読主題句 ヨハネ2・11より)

カナの婚礼
  エグベルト朗読福音書
  ドイツ トリール市立図書館 980 年頃
 
 カナの婚礼の話の中で、イエスの口から「わたしの時はまだ来ていません」と告げられる。《キリストの時がまだ来ていない》ときの出来事として述べられているということは、すでに本来の「キリストの時」のことが視点として据えられているということである。結論的にいえば、それは十字架の時、「栄光」が与えられる時である。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17・1)とイエスが告げる時がすべてのこの福音書の語りの出発点となっている。カナの婚礼の話の末尾2章11節で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」とある。最終的に栄光が現される時に向かっていく、最初の出来事という位置づけがすでに明言されているのである。
 「栄光」とは、神であることの重み、その尊厳、その輝き、その味わいを意味する語である。イエスが自らを神の御子、したがって神であるとして示された出来事という意味で、石の水がめの水がぶどう酒に変わったという出来事が語られている。全体がイエスの受難から復活へという過越の神秘の前表(予型)という意味をもっていると考えることができる。それが、この絵では、左の場面と右の場面との対照で表現されている。水がめに水を注ぐ召し使いたちの行為の様子と、イエスとマリアが向かい合っている空間の対比である。召し使いたちは、少年のように小さく描かれている。六つの水がめ(ヨハネ2・6)のうち、三つが水が注がれる側に、マリアの前の他の三つのかめはすでに中身がぶどう酒にかわっているように表現されている。福音書が、この不思議な出来事を語る言葉は、それぞれたとえ話の各要素のように暗示的である。「ぶどう酒がなくなりました」(3節)という言葉、このぶどう酒については世話役が「あなた(花婿=キリストを意味する語)は良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言うところなどに、ぶどう酒が、キリストの時の訪れを示すしるしであることが窺われる。
 画面の左の人間世界での営みは、今やイエスと「母」との関係の中にあるぶどう酒へと高められている。ここの様子自体が、それは、十字架の時によって実現する神と人との新しい関係を予告している。ちなみに、ヨハネ福音書、イエスの母についてマリアという名前は語らず、つねに「母」と呼ぶ。ここでも、イエスは、母に「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2・4)と告げる。後に十字架のそばにたたずむ母について「婦人よ(女よ)」と呼びかけるところ(ヨハネ19・26)で、この「母」「婦人よ(女よ)」という語が、最も印象的に登場することはいうまでもない。ここには、神およびキリストと教会の関係の予告があるといわれる。「教会」とは女性名詞であり、花婿キリストに対して、全体として花嫁といわれ、また「母なる教会」とも呼ばれる存在である。絵の中の母は、手を開き、イエスによってもたらされるもの、神から与えられるものを全面的に受け入れようとしている。イエス・キリストの到来による、神と新しい出会いを受け入れる教会の姿である。
 そしてさらに、この婚礼の宴には、我々におけるミサの暗示があると考えることもできよう。神の創造の恵みのもとでの人の労働の実りである、パン、ぶどう酒、水を精一杯の奉献の心で供えるとき、それは、神と人類との新しい永遠の契約のしるし、キリストのからだと血のしるしとなる。カナの婚礼の出来事は、十字架の出来事を経て、今、ミサに続いているということを味わい、神の計らいの神秘に心を向けていきたい。

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