『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年2月10日  灰の水曜日  (紫) 緑

2016年2月10日
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい  (マタイ6・6より)

いつくしみ深い主キリスト
  モザイクのビザンティン・イコン
  ドイツ ベルリン国立博物館 11−12世紀

 
 「いつくしみの特別聖年」(2015年12月8日から2016年11月20日まで)の中で迎える四旬節が始まる。その初日であるきょうの「灰の水曜日」のミサは、聖書朗読や答唱詩編を見ると、まさに神のいつくしみについて教えるものであることに気づかさせる。そこで、教皇フランシスコの『いつくしみの特別聖年公布の大勅書 イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』を参照しながら、きょうの箇所を、このまさしく、いつくしみ深い主キリストを表すイコンとともに味わうことにしたい。
 大勅書は1項で「御父は、モーセにご自分の名を『あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちる者』(出エジプト34・6)と明かされてからは、やめることなく、さまざまなかたちで、歴史の中で数々の機会に、その神性を知らせてくださいました」と述べている。このような神性の特徴は、きょうの第1朗読(ヨエル2・12−18)の中での「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」(13節)と重なり合う。
 主に立ち帰れという呼びかけは、なによりも神がいつくしみ深い方であるという真理に根ざしている。そして、神が御父であることをあかしされたイエスは、自身が神のいつくしみを体現する方である。大勅書が1項の冒頭で「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です」と語られるとおりである。
 きょうの福音を見ると、イエスはしばしば、隠れた御父のことを語る。すなわち、施しや祈りや断食を人に見せるためにするのではなく、隠れたところにおられる御父が見ていてくれるとの信頼をもって行うとき、神は報いてくださるのだと教えるのである。この隠れたところにおられる御父のことを告げるときのイエスの顔は、それ自体が御父の顔を示すものとなっていたであろう。「ナザレのイエスは、そのことばと行い、そして全人格を通して、神のいつくしみを明らかになさいます」(大勅書1項末尾)というイエス観は、イコンのキリスト像の根底に流れている。イエス・キリストのうちに、御父である神の姿が写し出されている。その威光と慈愛に満ちた姿、まさしく、御父の写し(ギリシア語でエイコーン)なのである。
 そこに「いつくしみは喜びの源、静けさと平和の源です」(大勅書2項)という意味合いを感じることができるかどうか、我々自身とイコンとの対話次第であろう。表紙絵のこのイコンの描き方の特徴として、イエスの目が真正面を見てはおらず、やや(向かって)右側に向かっている。我々のほうを直接を見てはいない。主はどこを見ておられるのだろうか……と考えてみてもよい。あるいは、どのようにしたら、我々のほうを見てくださるであろうか……と考えていくのもよい。それが四旬節にふさわしい自省と黙想になるかもしれない。
 灰の水曜日の聖書朗読箇所は、御父である神に立ち帰ることを主題として掲げ、四旬節全体の趣旨へと招いている。もちろん、これは、キリスト者として生きることの根底に貫かれる神の呼びかけである。この呼びかけが、特に今年は「いつくしみの特別聖年」として強められ、いわば一年中が四旬節のように過ごされていくことになる。2016年という年が、我々の信仰の原点に立ち帰る年、御父である神と我々、イエス・キリストと我々の関係を見つめ直し、我々自身が「御父の振る舞いを示す効果的なしるしとなる」(大勅書3項)ことを求める年とされていることの意味を、たえずイエス・キリストのみ顔と姿を仰ぎながら深めていきたい。

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