『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年3月27日  復活の主日 C年 (白) 白

2016年3月27日
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(ヨハネ20・1)

復活したイエスとマグダラのマリア
  手彩色紙版画 
   アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)
 
 復活の主日・日中のミサの福音朗読箇所は、毎年ヨハネ福音書20章1−9節が読まれる(場合によって各年の復活徹夜祭の福音を朗読することも可能)。ヨハネの朗読箇所は、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とマグダラのマリアが単独で行ったと述べる。これは、マタイが「マグダラのマリアともう人のマリア」、マルコが「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」と複数の女性の名が挙げられていること、ルカでは「婦人たち」(ルカ23・55)が墓に行ったことをまず述べ、あとで、彼女たちは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(24・10)と説明されている。これらを見ると、まず女性たちが墓に行き、天使からイエスの復活を最初に告げられること、複数の女性たちと記す、マタイ、マルコ、ルカでも必ずマグダラのマリアが筆頭に挙げられていることがわかる。そして、ヨハネ福音書では、マグダラのマリアが単独で墓に行ったと述べられ、最初にイエスの復活の証人となる。ヨハネ福音書における彼女の強調は、きょうの朗読箇所のあとの部分で、特別に復活したイエスがマグダラのマリアに現れたというエピソード(ヨハネ20・11−18)をもってきていることと関連がある。
 きょうの表紙絵は、朗読される箇所のあとに続く、こちらのマグダラのマリアへの復活したイエスの現れの叙述に対応している。それは、きょうの箇所の初め「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」に予告されている内容なので、これら20章1−18節の全体を味わうために有意義な絵といえるだろう。ちなみに、このマグダラのマリアへの現れの箇所(ヨハネ20・11−18)は復活の火曜日とマクダラのマリアの記念日(7月22日)の福音朗読で読まれるが、主日に朗読される箇所ではないので、きょうの日のここまで続けて味わうのも意義がある。
 そして、キリスト教美術の中では、この場面は、ヨハネ20章17節で、イエスがマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と告げる言葉のラテン語「ノリ・メ・タンジェレ」を表題とする絵として、数多く作品がある。場面そのものがドラマチックである。「わたしの主」が墓から取り去られていることに気づき、捜しているマリアに、まず、天使たちが「なぜ泣いているのか」と尋ねる(13節)、再び、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と訊く人が現れるが、マリアはそれがイエスだとは分からない(14節)。園丁だと思う。しかし、イエスが「マリア」と呼びかけると、気づく。彼女は振り向いて「ラボニ(先生)」と返す(16節)。続いて、イエスが「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上っていないのだから」と言い、イエスがこれから御父のところへ上ることを弟子たちに言うように命じる(17節)。マリアは弟子たちのところに行き「わたしは主を見ました」と告げ、イエスに言われたことを伝える(18節)。そして、そのあとのイエスの言葉(命令)は、我々に対するメッセージをも含んでおり、黙想にいざなう問いかけに満ちている。
 多く見られる絵では、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言うイエスの姿は、マリアのほうではなく、反対側のほうに向かっている。イエスのほうが別の方向に向かいながら、半身振り向いて、マリアに語りかけるという構図である。それがこれから父のところへ上ろうとしていることを示すものとなっていると考えられる。カルペンティール師のこの絵では(このような作例も歴史的にはある)、イエスの身体は、マリアのほうに向かっている。マリアはその前にひざまずいている。「マリア」と呼び、その呼び声でイエスと知り、「ラボニ(先生)」と呼び返したその出来事をこの向かい合わせの構図のうちに鮮やかに感じることができる。マリアは早速、両手をイエスのほうに上げて、すがりつこうとしている。しかし、イエスは左手でそれを制止する。まさに「わたしにすがりつくのはよしなさい」のしぐさ。そして、イエスの右手は天を指し示している。これは「まだ父のもとに上っていないのだから」、言い換えれば、これから「父のところへわたしは上る」ということを意味しているのある。このことこそを弟子たちに伝えるように命じている。このようにこの絵の描写はヨハネ20章16〜17節の内容全体を表現している点で出色のものといえよう。
 もう一つ、カルペンティール師のこの作品で見逃せないのが、背景である。二人が出会う石畳の地面の向こうには緑豊かな木々が密生し、その向こうには城壁と屋根がひしめき合っている町、その向こうには山、右側には、太陽が上っている。緑の木々は永遠のいのち、町は神の国、山は天に近い、神との出会いの場所、そして太陽は神の光、神の力の象徴であろう。イエスの復活がまさしく「わたしたちの主」の現れ、新しい創造、神の国の決定的実現であることをこれらの背景は暗示している。
 この一場の光景そのものが明るく、喜びにあふれている。

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