『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年4月3日  復活節第2主日(神のいつくしみの主日) C年 (白) 白

2016年4月3日
信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27より)

復活したイエスとトマス
  フレスコ画
  ギリシア オシオス・ルカス修道院聖堂 11世紀
 
 復活節第2主日の福音朗読は毎年このヨハネ20章19−31節である。イエスが復活したその日、すなわち週の初めの日の夕方に、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て立ち、平和を与え、聖霊を授ける。弟子たちの中でトマスだけが疑いを示す。その八日の後、つまり次の週の初めの日にまた、イエスが弟子たちの中に現れ、そしてそのトマスと対話する。経過や言葉の一つひとつが、ミサをとおしてのキリストと我々の交わりの諸相を暗示し、我々の思いのひだにまで触れてくる。味わい深い箇所である。
 なかでも、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20・25)と言ったトマスに対するイエスの対応、語りかけは、美術でもよく描かれ、一般に「トマスの疑い」ないし「トマスの不信」という題で示されている。
 さて、表紙絵に掲げた作品は、ギリシアのオシオス・ルカス修道院聖堂のものである。この修道院は、ギリシア中央部にあるヘリコン山の麓に、オシオス・ルカス (896 年〜953 年) という予見の賜物で知られた修道者の創建になる。彼に対する崇敬が高まり、11世紀半ばに皇帝バシリウス2世の母によって聖堂は増改築され、数多くのモザイクやフレスコ画で壮麗に飾られた。磔刑のキリスト、全能のキリスト、復活のキリスト、トマスの不信(表紙絵)、洗足、聖母子、聖霊降臨、降誕、主の奉献、主の洗礼など、キリストの生涯の諸場面が豊かな光彩のもとに展望される。
 上の引用が示すように、トマスは、イエスの手の釘跡と脇腹の傷跡を問題とするが、絵画的描写は、たいてい脇腹の傷跡に焦点をあてる。そこに向かってトマスがただ覗きこむだけのような描き方もあれば、手を伸ばしているだけの描き方もある。それに対して、この絵のように、実際に脇腹に手を入れているように描くものもある。イエスのことば「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(20・27)に即した描き方といえるが、実際にトマスがそうしたかどうかについては本文では言及されていない。トマスは、そうイエスに言われたとき即座に「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と言ったという展開である。絵は、動作的な描写しかしていないが、ここの中に描かれるトマスの神妙な表情、しっかりと傷を見つめる目には力があり、この表情から、「わたしの主、わたしの神」という宣言に移り行くことは納得できよう。
 この絵のイエスは、身を少しよじらせ、傷跡が見えやすいようにしている。トマスの疑いとか不信とかいうとそのような態度をいけないものとして戒める逸話かと思われる。トマスのようにではなく、素直に信じなくてはなりません……と。しかし、ここでのトマスとイエスのやりとりは逆に新たな祝福に満ちている。イエスは、あくまでトマスの気持ちを察知し、それを受け入れて、自分の身体をあからさまに示し、手を見なさい、わき腹に手を入れなさいと応じている。その態度が、トマスの「わたしの主、わたしの神」という告白を引き出したのではないだろうか。トマスは何もしていないかもしれず、イエスのことばを聞いてただちに信じたのかもしれない。見た、見ないはここで相対化されていく。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉はやや謎めいていて含蓄が深い。「聞いて信じる人は、幸いである」と告げているようでもある。それは、トマスも含む、直接に復活したイエスと出会うことができた弟子たち以後のすべての世代の人々、我々にまで、イエスとの出会い、あるいはイエスの復活を信じることへの扉を大きく開け放つ、祝福のことばとして響く。
 この絵では、他の10人の弟子たちの様子も細密に描かれ、彼らの目力がいずれも強い。それぞれ微妙に表情も違う。復活のイエスと出会った弟子たちの気持ちに即応しようとしている描写を細やかに味わいたい。全体の光景を満たす空気も清々しい。キリストが息を吹きかけて授けた聖霊の清新さが感じられる。弟子たちの神妙な表情は、神のゆるしを告げ知らせる使命を真摯に受けとめている姿といえるかもしれない。

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