『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年6月12日  年間第11主日 C年 (緑) 緑

2016年6月12日
主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる
      (第一朗読主題句。サムエル下12・13より)


ダビデ
  象牙彫り フィレンツェ パルジェロ美術館
  9世紀
   
 先週は旧約聖書に登場する重要な人物として、エリヤにちなむイコンを掲げたが、今回は、ダビデを描く浮き彫りの像である。王ダビデは、イスラエルの歴史一般において重要な存在であるだけでなく、神と神の民イスラエルの関係の歴史、すなわち救済史、あるいは契約史と呼ばれる歴史においても重要である。
 表紙作品は、9世紀の象牙浮き彫りであるからかなり古い作品である。玉座にいるダビデを描くもので、周囲を家臣や従者たちが囲んでいる。注目すべきは、やはり彼の頭上にさしのべられている「神の手」であろう。神の民の歴史の中で、ダビデが神から特別な使命と役割を与えられた存在であることを示している。この構図そのものも、後にたびたび描かれる玉座のキリスト、荘厳のキリストのひな型であることがよく感じられよう。
 ダビデとイエスのある種の対応関係は、もちろん聖書に根がある。ダビデに与えられた契約(サムエル下7・1−17)を土台として、救い主(メシア)はダビデの子孫から現れるという思想が培われていったことがその背景である(イザヤ11・1−10、エレミヤ33・6−26参照)。そうしてイエスは「ダビデの子」(マタイ1・1;21・9;ローマ1・3)と呼ばれるようになるが、同時にイエスはただこの人間的、民族的系譜にとどまらない存在であることもあかしされる。聖霊によって生まれた方(マタイ1・18、20;ルカ1・35)であり、ダビデの主(マルコ12・35−37)なのである。こうして、ダビデは、救いの計画の歴史の中で、たしかにイエス・キリストの存在につながる重要なポイントをなす人物であるが、ダビデ自身は欠点のある人間であったことがその罪(サムエル下11章)によって浮き彫りとなる。これに対して預言者ナタンが叱責したところ(同12・1−11節)からきょうの第1朗読が読まれるのである。彼の叱責を真摯に受けとめたダビデは、率直に「わたしは主に罪を犯した」(12・13)と告白する。それに対して、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」(同)と言う。ダビデは、ここでは救い主の予型として登場しているのではなく、神のみ前で心からの罪の告白をする人間の実例として登場している。いわば、きょうの福音朗読(ルカ7・36〜8・3。短い朗読の場合7・36−50)に登場する罪深い女の予型、回心者の歴史的実例として、きょうは想起されているのである。
 答唱詩編の詩編32の言葉が、ダビデの回心の言葉、そして罪の女の行為に込められた思いを代弁して歌っているようである。「わたしは罪をあなたに表し、わたしのとがを隠さずに言う」(詩編32・5 典礼訳より)。とするなら、ダビデは、神の民である我々自身にとっての先達である。ナタンの叱責に対して、ダビデは一切釈明をしない。ただ、「わたしは主に罪を犯した」と一言の告白するだけである。一言であるだけにこの告白の重みが伝わる。イエスが、涙で彼の足をぬらし、髪の毛でぬぐった女に対して、「あなたの罪は赦された」(ルカ7・48)、「あなたの信仰があなたを救った」(7・50)と告げるが、この言葉は遠くダビデにまで及ぶものであろう。こうして、ダビデは回心する人、信仰をもつ人として、神の民のあり方を教える実例となっていく(ヘブライ11・32参照)。
 きょうの第一朗読の中のダビデの告白が、我々をして、神のみ前に引き入れるような力に満ちていることも味わいたい。それこそが、浮き彫り作品の上からさしのべられる神の手がダビデに与えている役割のはずである。我々の上にその神の手がどのように伸びているか、問いかけてみてもよいだろう。

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