『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年6月19日  年間第12主日 C年 (緑) 緑

2016年6月19日
日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい (ルカ9・23)

イエスの十字架への道
  北フランスで作られた『時課の書』
  マドリード国立図書館 13世紀
  
 先々週の表紙ではエリヤの昇天のイコン、先週の表紙では、ダビデの浮き彫り像を鑑賞してきたが、これら旧約の歴史における枢要な人物の想起が、きょうの聖書朗読でも非常に役立つことになる。
 きょうの福音朗読箇所(ルカ9・18−24)の内容は、ルカ福音書が叙述するペトロの信仰告白とイエスの最初の受難予告である。表紙絵には十字架に向かうイエスの歩みを記す朗読福音書の挿絵である。ここには、ピラトの裁判、十字架を背負うイエス、十字架に架けられるイエス、そして十字架上での死という四つの場面が描かれている。直接にはヨハネ福音書に沿った受難の歩みともいえるが、きょうは、イエスの予告の中で想定されている出来事のイメージとして味わってみたい。
 予告の前の段落(ルカ9・18−20)の中で、イエスは「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねる。その中で、弟子たちは「洗礼者ヨハネ」、あるいは「エリヤ」だと言う人がいることを告げる。ここに、「エリヤ」という名が出ているところに、エリヤの再来がユダヤ民衆の中で待望されていた背景事情が浮かび上がる。洗礼者ヨハネがまずは、エリヤの再来ではないかと思われていたほどである。しかし、イエスは何者かという問いかけは、それらを追い越していく。そのことをペトロは「メシア」という言葉、しかも「神からのメシアです」(9・20)という答えで宣言する。
 メシアとは「油注がれた者」を意味し、ダビデなど王や祭司たちがその聖別の際に行われる儀礼の記憶が込められた言葉であるが、預言者たちの預言の中で、終末に待ち望まれる神的救い主のイメージを示す語として深められていく。その言葉をもって、しかもその意味合いを「神からのメシア」(直訳「神のメシア)と宣言する。このメシアがギリシア語では「クリストス」になる。すなわち「キリスト」である。「イエス・キリスト」という名は、実際には「イエスはキリスト(救い主)である」という信仰宣言にほかならない。したがって、このペトロの信仰告白は「イエスよ、あなたは神が油を注がれた方、預言者によって告げられ、待ち望まれていた救い主です」と宣言していることになる。
 そのイエスは、まだペトロさえも知らない、受難という道をたどることを自ら予告する。「人の子」という表象をもってその運命が表される一方で、はっきりと「わたしに従いなさい」というメッセージを強めていく。エリヤやさらにダビデの記憶を「メシア」という語に含ませつつ、それをはるかに超えていく独自な道が「人の子」という言葉、他のだれでもない「わたし」という語によって表現されるのである。
 さて、第1朗読で「ダビデの家」という言葉が出ていて、「ダビデ」の名とともにイスラエルの民の歴史が想起されていることも興味深い。イエスの受難が、旧約の神の民の「罪と汚れを洗い清める」贖いのわざであることの暗示(予告)として読むことができる。また、第2朗読(ガラテヤ3・26−29)では、「キリスト(救い主)であるイエス」という意味の「キリスト・イエス」という呼び方をもって、パウロはその生涯の意味を語るが、そこでは、旧約の民、ユダヤ人の贖いのための救い主というだけでなく、「ユダヤ人もギリシア人もなく……」と全人類にとっての贖い主であることが告げられている。
 福音朗読、第1朗読、第2朗読と巡って味わいつつ、そして表紙絵でほんとうのイエスの受難の場面を鑑賞するとは、だんだんと黙想が深められ、広げられていくのを感じないだろうか。表紙絵も描写している、イエスの十字架の道そのものにも、つねに「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)というメッセージが込められている。「自分の十字架とは何か」がたえず問いかけられている。

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