『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年7月10日  年間第15主日 C年 (緑) 緑

2016年7月10日
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です(コロサイ1・15)

救い主イエス・キリスト
  ビザンティン・イコン
  マケドニア スコピエ美術館 14世紀
    
 「御子は、見えない神の姿」−−きょうの第二朗読のことばにちなみ、救い主キリストのイコンを掲げた。それは、今年「いつくしみの特別聖年」のテーマでもある「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」(いつくしみの特別聖年公布の大勅書の表題)にちなんでのものである。父である神の「いつくしみは生きたもの、見えるものとなり、ナザレのイエスのうちに頂点に達しました」(同大勅書1項)という、キリスト教の神秘の核心を、イコンのキリスト像は、つねに観想させてくれる。このイコンの特徴をなす、基調色の赤に、神の愛といつくしみのもつ温かさ、熱意、力強さを感じ取ってもよいだろう。
 西方中世の朗読福音書におけるイエスが髭のない青年の姿でイメージされていることに、かえって新鮮な印象を覚えるほど、我々には、髪の長い、髭を生やした痩身の男性像としてイエスをイメージすることが定着している。ある意味で父性を宿したキリストの姿をこのように単独の姿で示すイコンの場合は、そこに、神学的なキリスト理解が表現されていることが強く感じられる。すなわち、観る者に向かい合う形で正面を見つめている、このようなキリストの像は、すでにいつもそのうちに御父である神を映し出していると感じられるのである。尊厳ある衣、みことばの象徴である本(左手)、右手の祝福のしるし、十字架が模様となっている頭の後ろの光輪、すべてが十字架の死と復活を経て、御父の右の座につき、御父とともに生き、すべてを導いている方としての主キリストを表している。と同時に、そこには、御子を派遣した御父の姿が映し出されているのである。したがって、ここで、我々はキリストと対面させられるとともに、御父とも対面させられるのである。ただ単に絵というだけではない、現存を実感できる場そのものといえるだろう。
 もちろん、多数の作例があるイコンには、描かれ方や表情の違いがある。それぞれキリストを観るときの人間の側の思いの多様性を示すものだろう。このイコンの場合、両眉、両眼の間が狭く、一見するとやや冷たく厳しい表情にも見えてくる。生きている方の表情のある瞬間がとどめられているのだとすれば、そのような表情にもイエスらしさがあると感じ取るべきだろう。むしろ、その表情を見てどう感じるかは、我々自身の心のあり様にも左右されるのだろう。そのようなことを考えているうちに、このイコンをとおしてキリストとの対話が始まる。そして、その感覚で福音書に向かうと、イエスがだれかと出会い、その人に対して、あることを行ったり語ったりした次第を述べる三人称式の物語も、直接、イエスが我々に「あなた」として向かってくる、キリストと我々の対話の書となっていく。そのようにして、イエスのみ顔、み声と向かい合って、その存在と人格を感じることが大切である。それが、イコンのキリストが我々に向かい合っていてくれてこそ感じられるものである。
 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』」と言って、律法を唱えた人に対して、「それを実行しなさい」といって隣人であるのはだれかということをたとえで教えるイエスの、きょうの我々に対する呼びかけを聞いていこう。また、使徒書が語る、御子のうちなる万物の創造、御子の十字架による御父との和解の意味も、このイコンとともに深く味わえるだろう。

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