『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年8月14日  年間第20主日 C年 (緑) 緑

2016年8月14日
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである(ルカ12・49より)

神の国への決断を求めるイエス
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)

   
 きょうの福音朗読ルカ12章49−53節の中の最初の節「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」にちなんで、表紙絵は、直接に火が天から降ってくる様子を描くものとなっている。
 きょうの朗読箇所のイエスの言葉は二重の意味で謎めいている。後半で、イエスは、地上に平和をもたらすために来たのではなく、むしろ分裂であると語られる。普通に今日、世界の平和と一致を願うことを全教会として進められていることを思うとき、このイエスの言葉、言葉の上では、真っ向から逆のことを言っているように響く。さらに前半で語られる、地上に火を投ずるという表現、また「わたしたには受けねばならない洗礼がある」という表現も謎めいている。
 カルペンティール師がこれらの節を踏まえて描いた絵を味わいながら、朗読箇所の言葉を考えてみよう。『聖書と典礼』の脚注も参考にしてほしい。まず、第二の疑問から考えていくと、イエスの言葉の後半に出てくる「火」「洗礼」は、洗礼者ヨハネが登場したとき、イエスの出現を予告していう彼の言葉の一節を思い起こさせる。ルカによると(3・16)、ヨハネは「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言う。ここで語られる「洗礼」とは、教会で行われる洗礼式の洗礼、洗礼の秘跡のことではなく(関連はもちろん出てくるが)、もっと根源的な意味で、人が神に至るための最終試練、裁きを前にしての試練・精錬を意味すると考えられる。きょうの箇所で、イエスが言う、自分の「受けねばならない洗礼」は、イエス自身が神のもとに至るために地上で受けることになる最終試練としての受難と死を指していると考えられるのである。それらを含めると、きょうのイエスのメッセージは、自分が率先して、人が神に至るための苦難の道を歩んでいくが、それは、すべての人に神に向かうか向かわないかの最終的な決断を迫るものとなるということが暗示されていよう。そのために自分は来たというしかたで、イエスは、神の意志に従う自分の使命を告げているのである。
 絵の中のイエスを見てみよう。周囲にいる人々の中で、ひときわ背が高い。特に、手前にいて静かに手を合わせて祈っている人には、やさしく保護の手を差し伸ばしているようである。人のために自分は来た者であるということがここにも示されていると感じられる。
 そのイエスがこれから受ける苦難は、すべての人にとっての「火」となる。それは「父は子と、子は父と……対立して分かれる」(ルカ12・53)と言うほど、家族の中の人間関係にさえ、断絶や対立をもたらすものとなるとまで言われている。ここで言及されている人間世界における対立と分裂は、むしろ、神の次元と人間の次元の相違がもとになって起こされることである。実際、神に従い、イエスに従うということは、人の生き方を決定づける根源的なことであり、それは、家族関係によっても触れられない次元のことである。ルカの福音書は、この12章の前後もずっと、イエスに従う弟子となること、神に従う人となることについての教えが続くが、その中で、きょうは試練や苦難を語ることによって、その道の姿を浮き彫りにさせる。
 そのメッセージを第一朗読のエレミヤ書(38・4−6、8−10)は、旧約の預言者エレミヤの苦難のエピソードを想起させ、神の計画の深遠さを伝え、第二朗読のヘブライ書(12・1−4)は「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(1節)という使徒の呼びかけによって補強しているといえよう。

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