『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年9月4日  年間第23主日 C年 (緑) 緑

2016年9月4日
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか(第一朗読主題句 知恵9・13より)

万物の創造主である神
  細密画
  パリ国立図書館  14世紀
   
 今回の表紙絵は、第1朗読の知恵の書の箇所(9・13−18)にちなんでいる。そこは、「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか」という問いかけから始まる。創造への直接の言及はないが、「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら」同(9・17)という言及のうちに、少なくとも人間の創造のことが想起されていると思われる。
 ちなみに、8月1日付でカトリック中央協議会から邦訳が刊行された、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の精神が盛り込まれたものと思われる、「被造物を大切にする世界祈願日」が同教皇によって定められ、日本では、今年から9月第1日曜日に当てられて始められる。本日がその第1回にあたることも、この表紙では考慮してみている。
 創造主である神を表現するこの14世紀の細密画について、美術史的に解説する文献が少ないので、ここでは、聖書朗読の内容を考えるヒントとして鑑賞し、万物の創造から、御子キリストによる贖いの実現、そして世界の完成までを導いておられる神のはからいに思いを巡らせてみたい。
 さて、きょうの福音朗読箇所は、ルカ14章25−33節である。イエスが大勢の群衆に対して語られた一続きの説教の一節で、そこでは、イエスの弟子になること、弟子であることは、どういうことであるかが直接教えられている。たとえば、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであり、わたしの弟子ではありえない」(27節)とか、朗読主題句にもなっている「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)という言葉のほうが我々にとっては直接響くだろう。ところが、福音との主題関連で選ばれているはずの第1朗読の知恵の書では、朗読主題句が「主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか」となっている。福音の内容と、この知恵の書の箇所の関係はどうなのか、そこに大きな問いかけがまずあるようである。
 福音朗読に戻ると、上記のような直接弟子であるための姿勢を語る箇所のほかに、塔を建設するとき、敵を迎え撃つときのことをたとえとして、「まず腰をすえて考えること」の重要さが教えられている。この言葉は、28節と31節の二箇所で出てくる。このことが、十字架を背負う、持ち物を一切捨てるとの絡みで告げられている点が、きょうのイエスの教えの重要なところと思われる。
 知恵の書の朗読箇所は、「神の計画」「主の御旨」への問いかけを示し、人間には、そのための知恵と聖霊が与えられていることを思い起こさせている。それは、天地万物の創造に際して、人間を造られたとき、「命の息を吹き入れられた」(創世記2・7)という話につながる。知恵の書の箇所では、「人は知恵によって救われた」(知恵9・18)と語るように、知恵が積極的な意味合いで語られる。この考え方のうちに「知恵」がやがて「言(ことば)」として理解され(ヨハネ1章参照)、また、「神の知恵であるキリスト」(1コリント1・24)という新約のキリスト理解へと発展していくのである。人間の創造とキリストの贖いの奉献によるその存在の高まりといった、救済史の要諦をなす神秘が、きょうの聖書朗読全体を通じて深く考えられている。答唱詩編も、人間の塵からの創造を思い起こさせ、この神秘の味わいを導くものとなっている。このような、歴史の中で実現されていく神の救いの計画(神の創造のみわざ、人間の創造の歴史、救い主キリストの到来、キリストの死と復活による人類の再創造、キリストの復活に続く、人類への聖霊の授与)こそ、我々がじっくりと「腰をすえて考える」べきことであろう。そうしたとき、自分の十字架を背負い、持ち物を一切捨てて、キリストに従うことの意味が出てくる。
 このような聖書朗読の含む展望の中で表紙絵を眺めてみよう。神が中央の円の中におり、周りには動植物がいっぱいに描かれている。これは陸地を象徴し、周りの青のグラディエーションがかかった層は、空・大気圏をイメージしている。その周りは光の層、外側には土色の層があり、その上の三角に近い形をして、光を放っているので、これら全体は宇宙を示し、その頂きには神の栄光が輝くということで、神によって造られた被造界の全体が縮図化されていると思われる。中央に立つのは、もちろん、父なる神であろう。やや老人のように描かれているところに、永遠性が表現されているようである。もちろん、我々は、この中に、キリストをイメージすることもできる。創造の園は、また、救いの計画の完成を迎える楽園の予兆でもある。この不思議な円形の図を通して想像できる創造と贖いと完成の歴史は、我々がミサでいただく聖体の中にも凝縮されていることも併せて考えてみたい。


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