『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年11月6日  年間第32主日 C年 (緑) 緑

2016年11月6日
すべての人は、神によって生きている(ルカ20・38より)


人類を死から解放する復活のキリスト
  エジプト 聖カタリナ修道院
   12世紀
   
 東方教会のイコンで一つの定型となった画題「キリストの陰府(よみ)降(くだ)り」を表紙に掲げた。
 きょうの朗読箇所(ルカ20・27−38=長い場合)は、復活を否定するサドカイ派の人との論争の場面であるが、要点としては、末尾の「神は死んだもの神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)がメッセージの核心をなしている。復活信仰や永遠の命への信仰の根底をなす、神についての教えが語られているのである。そして、この信仰の先駆けを示す、二マカバイ記7章(1−2、9−14)が第1朗読になっている。「世界の王は、……我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる」(9節)、「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである」(14節)と。
 福音の箇所を直接示すイコンではないが、イエス自身の復活が意味する出来事、死の闇(陰府)に沈む人類が再び永遠の新しい命へ導き出されるという、キリスト教の復活思想の一端を示す表紙のイコンとともに黙想を広げてみたいと思う。
 イエスの復活の意義は陰府降りにあるというのがイコンにおける画題化の根拠になっている。我々がミサで唱える使徒信条の「三日目に死者のうちから復活し、陰府に降り」の箇所に相当するが、イエスが人類(アダムとエバ)を死の眠りから引き上げる、やや伝説的なイメージは、直接には新約聖書外典・偽典に属する『ニコデモの福音書』から広まったらしい。それはたしかに伝説的かもしれないが、その意味するところは、新約聖書の教えの根幹に属している (使徒言行録2 ・24-28; 1コリント15・20-22; ヘブライ2:14-15 など) 。イエスは、たしかに、罪のもとに置かれ、死の国に下った人類を永遠の命へと引き上げるために自ら陰府に降った。結局、人間の命は、地上の死を超えても、なお、イエス・キリストの死を通して、神の命、永遠の命へと導かれていくのだという信仰、キリストの復活による贖(あがな)いへの信仰が告げられている。
 この聖カタリナ修道院のイコンが写し出すイエスの姿は、青い衣が鮮やかであり、また、後ろのほうが上に跳ねている。上から来た方の雰囲気がよく出ている。イエスの足もいわば爪先立ちで、ここにも上から地の底に来た感じが表されている。足の下に描かれるものに注目したい。全体として濃紺であるが、これは、やはり死の闇の色である。その中には打ち捨てられた十字架が見える。周りには散乱する錠前や鍵、閂( かんぬき) や杭( くい) のようなもの。こうして、イエスの死、すなわち陰府に降ったことによって、絶対的な死(地獄) への扉が決定的に滅ぼされ、永遠の命の支配が始まりつつあることが表されている。イエスの内衣の金色(復活の命の輝き)とこの下の闇空間との対照が鮮やかである。
 さて、イエスが実際に手をとっているのはアダム。その顔をさらに、後ろで拝んでいるエバの顔も、なお手を引き上げてくれている方への畏怖の念が強調されているようである。復活という出来事と陰府降りの神秘へのおののきのように感じられる。その表情はたしかに複雑である。罪への悔やみが背景にあるのだろうか。ここは黙想を誘わずにはいられない。遠目から見ると、ここのキリスト、大きく描かれた礼拝姿勢のエバ、そして前にいるアダムは、キリストとマリアとヨセフの三者にも感じられてくる。いわば、古い人類と新しい人類、罪に堕ちた人類家族と罪から贖われた人類家族の対照がこの構図の中に見えてくる。イエスの後方にいるのは、旧約の預言者や王が描かれていると考えられるが、これも、新約の民の先駆けと見ることができよう。
 イエスの姿は、ここでは、神から来られた方の威厳に満ちているが、これが、十字架のイエスのもう一つの姿であることを忘れてはいけない。イエスは十字架の苦しみと死の中に、身をもって沈み、その死の闇の深淵に身を潜ませてくれたことによって、人類の真の救い主となった。ここに描かれているのは、あくまでその苦しみの真相なのである。

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