『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年12月11日  待降節第3主日 A年 (紫) 紫

2016年12月11日
来(きた)るべき方は、あなたでしょうか(マタイ11・3より)

洗礼者ヨハネ
  ロシア・イコン
  モスクワ トレチャコーフ美術館 17世紀
   
 このイコンは独自なイメージで荒れ野に現れたヨハネを描く近世初期のロシア・イコンである。ロシアにとって17世紀初めは、ポーランドとスウェーデンの侵略に遭い、国土がすっかり荒廃した苦難の時代だったようである。そのなかで、ストローガノフ家という大商人の領地に身を隠した一群の画家たちがいて、ストローガノフ派と呼ばれるようになる。彼らの描く人物像は、時代を反映してか、悲しさ、暗さ、絶望感が漂っていたという。一方で、貴族の絵画収集家をあてにし、金箔をふんだんに使ったりしているため、一種独特な細密画となっている。この絵も名前は不詳のストローガノフ派の画家の作品とされる。
 全体の印象は幻想的というか、今日的に言えば、マニアックである。ヨハネを示す要素としての毛衣の描写が実に細かい。左手に下がる、開かれた巻物は、最後の預言者ともいわれる彼の使命を暗示していよう。背景でくねっている黒い川はヨルダン川を表現したものと思うが、洗礼を授ける人としての特質が左手にもつ洗礼水の器によっても示されている。よく見ると、その中には小さく人が横たわっている。受洗者の象徴かと思われるが、こうなると、ほとんど聖書の内容を踏み越えた自由な想像図というしかない。
 背景の荒れ野にも鳥獣が描かれているが、樹木の描写がやや異様ではある。ただこのように生命が豊かに描かれているところをみると、すでに楽園のイメージを表しているようでもある。荒れ野に現れたヨハネのもとに楽園が広がりつつあるという見立てであろうか。そうすると、先週の聖書朗読で読まれたイザヤ11章の6−7節「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す……」といった箇所が思い起こされる。
 少なくとも、このイコンにおける洗礼者ヨハネの描写は、先週の福音朗読箇所であるマタイ3章1−12節が語るような光景を写し出しているわけではない。そこでは、ヨハネは人々に「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3・2)と告げ、洗礼を授け、さらにイエスの訪れを予告するが、ここでは人々の描写は皆無である。この絵は、左上に、地上の次元とは区別されて、玉座の神(またはキリスト)、その周りに天使たちがいる場面が小さく描かれている。つまり、これは、洗礼者ヨハネの召命という、聖書では触れられていない、しかし、おそらくあったであろう出来事の場面を想像して描いたものとも考えられる。このようなヨハネの召命というテーマはイコンでは伝統的な画題でもあるのである。
 ところで、きょうの福音朗読箇所であるマタイ11章2−11節では、すでにヨハネは牢の中にいる。処刑されることを覚悟しながら、自分が予告した救い主がイエスであるかどうかという確認の問いかけを自分の弟子に託すところから始まり、その問いを受けたイエスがヨハネを最も偉大な者として称揚する箇所である。洗礼者ヨハネは、イエスに洗礼を授けたという意味でのみならず、その受難においてもイエスの先駆者となる。そのような救いの歴史における使命を生きたヨハネの召命の光景は、やはり黙想に価する。
 このイコンは、神とヨハネの向かい合う空間が特に光輝いている。この光の中に、旧約聖書で物語られてきた、神と人類の織りなす歴史、預言者たちの生涯とその預言の歴史が宿されていると受けとめてもよいだろう。ここで、きょうの第1朗読のイザヤ35章1−2節の内容を一緒に味わうのもよい。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ……」。救いの訪れを見事に歌うこの歌は、きょうの答唱詩編、そして福音朗読をとおして、イエスの訪れを知った喜びに合流していく。このイコンでは、暗さとともに萌えたつような光の輝きの対比が鮮やかである。荒れ野の闇が楽園の輝きに変わろうとする瞬間にたたずむ洗礼者ヨハネの姿から、キリストを待ち、迎えることへの霊的励ましをもらって、待降節をさらに歩んでいくことにしたい。

 このページを印刷する