『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2017年2月12日  年間第6主日 A年 (緑) 緑

2017年2月12日
わたしが来たのは律法や預言者を……完成するためである(マタイ5・17より)

変容
  フラ・アンジェリコ画
  フィレンツェ サン・マルコ博物館 15世紀
   
 きょうの福音を意識して、主の変容の箇所を掲げた。主の変容の出来事が物語られる箇所ではないのになぜかと思われる向きもあるだろう。実は、表紙にも掲げた文言である、きょうの福音朗読箇所マタイ5章17節のことば「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」に着目した。律法を代表するのがモーセ、預言者を代表するのがエリヤであるという旧約聖書に対する見方の伝統がある。変容の出来事において二人が現れ、イエスが親しく語り合っていた中にも、実は、イエスが律法と預言を完成する方であるというあかしが含まれている。そのことを意識するために、ここは、フラ・アンジェリコの描く主の変容の画をとおして黙想してみたいと思う。変容の図の伝統からすると、やや新しい描き方が示される作品だからでもある。
 たとえば、イエスは両腕を水平に広げ、自らを示しているところは、「わたしが来たのは、……完成するためである」という強いメッセージと響き合う。また伝統的にはモーセ、エリヤが全身像で描かれるのに対しては、ここは、顔のところだけがあたかも回想シーンの一部のように描かれているところにも、イエスの姿に対する強調が感じられる。さらに三人の弟子以外に、左にはマリア、右にはドミニコが描かれているというように、福音書の叙述を超えて、作者の時代の中で、イエスの変容の出来事を受けとめているという点もこの作品の個性である。
 さて、きょうの福音朗読箇所は長い形のほう(マタイ5・17−37)までみると大変細かな教えになっている。要点は、キリスト者の義は、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければならないというところにある。律法の教えをさらに超えるほどの厳しい内容になっている。そこに、神の国(マタイでは「天の国」)に生きる、福音的に生きることの一つの側面が照らし出されているといえる。
 律法学者やファリサイ派の人たちにより、律法の厳守がひたすら説かれていたなかで、イエスは、律法の瑣末(さまつ)ではなく、律法を与えた神自身の真意に立ち返って教えを説いていく。その大胆な振る舞いは、彼が律法を廃止するために登場したのではないかという見方も周囲に生み出させた。しかし、ここで、イエスは、律法を廃止したり、またそれを緩和したりするために来たのではないと告げ、むしろ「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5・18)とまで語る。
 こう聞くと、現代の日本に生きている我々は、あの時代の律法を学んで、それを完全に守らなければならないような気にさせられてくる。キリスト者となるためには“超律法主義者”にならなくはならないのかと。そうではなく、イエスがここで示しているのは、律法が本来は神を第一にして生きるための道しるべであること、そして、もっと徹底的に神に従って生きる生き方を指し示そうとしている。きょうの教えは、こうすれば裁かれるとか、こうしてはならないといったような否定形が満載だが、その実、それらはすべて神を愛すること、人を愛することを具体例をもって教えていることに気づかされる。最も重要な掟として説かれる内容(マタイ22・34−40節。今年の年間第30主日の福音朗読箇所)を先取りしているのである。
 これが、イエスのいう「あなたがたの義」すなわちキリスト者の義である。きょうの第1朗読のシラ書(15・15−20)にちなむと、主を畏れる生き方、第2朗読(一コリント2・6−10)に引き寄せていえば、キリストの十字架によって明らかにされた神の知恵を知る者の生き方ということになろう。愛という言葉が使われると、何か甘く、優しいことのように響くが、そこには、神への畏れがあり、イエスのきょうのことばのような、厳しさも含まれている。
 この表紙絵も、人間の生きている次元より一段と高いところにいて、神からの光を背に受けて、み旨を体現しているイエス・キリストのあり方を厳粛に描いているようである。神のことば、イエスの思いは、我々に何を求めているのか。その問いかけを、きょうの福音とともに受けとめていきたい。

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