『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2017年3月5日  四旬節第1主日 A年 (紫) 紫

2017年3月5日
実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです  (ローマ5・14より)

人間の創造と罪
  浮彫
  スペイン ヘローナの修道院  12世紀
   
 きょうの第1朗読箇所(創世記 2・7-9, 3・1-7)にちなみ、12世紀、スペイン、ヘローナの修道院の通路の柱に造形された浮彫作品が掲げられている。アダムと女(エバ)が蛇の誘惑によって園の中央の木の果実を食べた。すると「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」 (創世記 3・7)という有名な場面である。この造形では、アダムとエバの描写が大変素朴である一方、中央の木の描写がかなり個性的である。木の幹はまっすぐではなく、くねっており、そこに下から這い上がるように蛇が描かれているのがわかる。蛇は頭をエバのように寄せている。「蛇は女に言った」(3・1他)という箇所に関連する。
 木の葉の造形がさらに目立つ。出典文献の解説によると、ぶどうの木の葉のイメージであるという。「園の中央の木」を描くなかで、同時に楽園のイメージが込められているらしい。アダムとエバが腰を覆った葉は聖書ではいちじくの葉とされているが、ここでは、ぶどうの木の葉という解釈が成り立つ。そこにもし、作者の聖書に対する黙想が含まれているとしたら、木の中にキリストのイメージが含蓄されていることになる。いうまでもなく、イエスは、自分を「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15・1。以下の説教全体も参照)と説き明かす方だからである。こうして、この木には、楽園のイメージ、同時に罪の誘惑のイメージ、そして、人類を罪からあがなったキリストの十字架の木、そして譬えで語られる「まことのぶどうの木」)のイメージが総合されていることになる。腰を葉で覆ったアダムとエバは、地上の現実の中で生きるための苦しみを負いつつ、やがて人類全体が神のものとなっていく歴史の発端を築くのである。
ここでの自らの使命への自覚は、このあとの人類、そして神の民の歴史の中で、しばしば揺らぎ、迷いつつも、やがて神の救いが到来するという希望へと招かれる。このあたりの意味合いを雄弁に語るのが、きょうの第2朗読、ローマ書5章12−19節(長い形)である。「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」(5・14)。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人(つみびと)とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(5・19)。第2朗読主題句は「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれ〔まし〕た」(5・20)である。
 表紙の浮彫作品を一瞥するだけだと、創世記の場面の描写にすぎないと思われるが、中央の木の描き方に注目し、第2朗読の内容を参照して味わうなら、キリストを前もって示すしるしと呼ばれるものが中央の木、そしてアダムの姿の中にあることがわかる。木を這い上がる蛇の誘惑もその近くにあることを見ると、イエス自身が受けた誘惑(きょうの福音朗読箇所マタイ4・1-11参照)を暗示する図ともいえなくもない。
 ところで、アダムとエバの造形は、素朴であると同時に大変力強い。人体のプロポーションなど写実的ではなく、頭の大きさが目立たせられているが、その姿は、決して弱々しくなく、苦しんでいるようでもない。人間としてしっかりと地に立っている。きょうの朗読箇所の末尾は、罪を犯したという側面でネガティブな事柄を述べているように印象づけられる。続く箇所(創世記3・8−24節)で神の裁きを受けるくだりとなるからである。その一方で、人類の使命(子どもを産む苦しみ、男性と女性の関係のあり方、労働の苦しみ)に向けての派遣と読める内容でもある。神の前での人間の有限性の自覚と地上における使命への派遣がここで語られているとしたら、この浮彫作品における描写が感じさせる、人間の力強さ、尊厳ある姿と響き合う。
 一つの場面を描く中で、救いの歴史全体が展望できる、そのような作品であることは間違いない。

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