『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2017年4月30日  復活節第3主日 A年 (白) 白

2017年4月30日
パンを裂くと、彼らはイエスだと分かった(福音朗読主題句 ルカ24・30−31より)

エマオの家の食卓で
  エヒターナハの黄金写本
  ドイツ ニュルンベルク ゲルマン国立美術館         1030年頃
   
 エヒターナハとは、現在のルクセンブルクの都市。「フリースラント」と呼ばれる北海に面した諸地域のへの宣教拠点となったベネディクト会修道院があり、8世紀から11世紀までは写本画制作の一大中心地の一つとなっていた。地理的にはドイツのトリールとも近く、その地で制作された「エグベルト朗読福音書」写本の挿絵とも作風が似ている。そのエヒターナハ修道院で作られた金文字写本聖書挿絵の一つが表紙絵である。
 さて、きょうの福音朗読箇所は、エマオへ向かう弟子たちと復活したイエスの出会いである(ルカ24・13−35)。きわめて印象深いエピソードの一つであろう。物語の焦点は、エマオという村に向かって歩む二人の弟子の道中に、復活したイエスが現れたが、二人はイエスとは気づかず、宿泊した家で食事をしたとき、イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24・30−31)のところである。描かれているのは、まさしく、「パンを裂いてお渡しになった」から、「イエスだと分かった」瞬間に移ろうとするところである。パンを左手で渡しつつ、右手で祝福するイエスの姿がはっきりと描かれている。二人の弟子たちも、事の次第をしっかりと見つめている。このあと、イエスを見ようとすると、そのときには、イエスの姿は見えなくなるのである。
 物語られている内容の前後の叙述にあたる要素は一切なく、ただ、事の核心だけを描くこの絵。全体を囲む城壁も、話に出てくるエマオ付近の宿舎を描写するというよりも、救い主イエス・キリストとの出会いが起こったこの世界を象徴的に示すものといえよう。写本画ではしばしば登場する、キリストの出来事の提示の仕方である。
 このエピソードを描く絵として興味深いのは、二人の弟子の上にそれぞれの名前が記されていることである。ルカ福音書では、そのうち一人についてのみ「クレオパ」と紹介されている(ルカ24・18)、この絵では右側の青年である。そして、白髪の年長の男の上には「ルカ」と記されている。これは写本画で明記されるだけで、福音書自体には名前が出ていない。しかし、この名前の言及されない弟子を、福音書の著者ルカであると考えると、本文で自己の名前を伏せた意味もなんとなく察せらる。ルカ福音書だけがこのエピソードを記すことも、本人の具体的な経験に基づくとすれば、納得できるようになる。少なくとも、そのように写本画作者たちが考えていたという事実だけでも味わい深い。
 もう一つ、このエピソードは、我々の今、体験するミサと直結していることも重要である。主キリストは、今も、ミサの中に現存して、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という行為を続けている。復活して今や天の父の右の座におられる御子キリストは、ことばとしるしをとおしてミサの中に現存し、我々と交わるのである。弟子たちは、この宿舎に来る道すがら、イエス(だと分かった方)が聖書を説明してくれたこと(ルカ24・32参照)を思い起こしている。このような叙述は、このエマオへの旅の途上での、イエス自身による聖書の説き明かしと一緒にしてくれた食事を、まさしくミサがことばの典礼、感謝の典礼という形で受け継いでいることを考えさえてくれるのである。
 復活したイエスと出会い、この復活を告げ知らせるようになる弟子たちの旅をいわば我々も続けている。あのとき、聖書の説き明かしを受けた弟子たちの心は、それとは知らずに、燃えていたという(ルカ24・32参照)。この絵の中のイエスと弟子たちの空間は美しい金色で満たされている。そのとき感じた弟子たちの燃える心と響き合う輝き。それは、新しい、永遠のいのちの喜びにほかならない。

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