『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2017年5月14日  復活節第5主日 A年 (白) 白

2017年5月14日
わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14・6より)

歩むキリスト
  フレスコ画
  ギリシア オシオス・ルカス修道院聖堂 11世紀
   
 復活節第5主日と第6主日はABC年各年全体にわたり、ヨハネ13章、14章、15章から取られている。最後の晩餐の席での話から始まる、イエスの弟子たちに対するいわば告別説教と呼ばれる一連の説教の箇所である。復活節にあって、新入信者を迎えた信者共同体があらためてイエスの教えを受けとめるという意味の配分である。きょうの箇所(A年)はヨハネ14章1−12節。イエスはまず昇天と再臨の約束(1−3節)を告げ、続く、弟子たちとの対話の中で「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)というはっきりとした自己啓示をする。
 この「わたしは道であり、真理であり、命である」は、キリストの神秘を端的に説き明かす命題として心に刻まれ、格言のように親しまれている。その言葉にちなんで描かれたキリスト像がこのオシオス・ルカス修道院聖堂のフレスコ画である。この修道院は、ギリシア中部のヘリオン山の麓に10世紀に建てられ、11世紀に造られたモザイクが有名であるが、このキリスト像はフレスコ画の壁画である。
 キリストが半身になって、歩いている格好で描かれているところが特に興味深い。道を歩んでいる動きを感じさせるキリスト像はユニークであるので、きょうの福音を味わう伴侶としてもふさわしい。福音朗読箇所ヨハネ14章1−12節の前半では「行く」という語が重要な役割を果たしている。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(3節)と、これから向かう受難と死の意味を暗示し、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と告げる(4節)。これに対してトマスが「どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねたときに、答えたことばがその「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)である。
 この半身のイエスの開かれた姿勢の中に、自ら歩んでいく姿と、(ここには描かれてはいない)弟子たちを祝福する姿がともに示されている。イエスが神への道であること、神の真理を示すものであるという点が、この描き方の中に十分に表されているようである。また、イエスが爪先立ちをしている地面が緑に彩られているところに、永遠に新しいいのちの意味合いを感じてよい。
 福音朗読箇所の後半で、フィリポとの対話が展開する(ヨハネ14・8−12)。そこでは、「御父をお示しください」というフィリポに対して、イエスは、「示す」のではなく、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(10節)と告げる。そのように、イエスが自らによって、他のところにいるかのように御父を指し示す役ではないということ、自らの中に父がいて、自分も父の中にいるという存在的な関係を説き明かしているということが重要である。絵や図像の解説の際には、どうしても、イエス像が御父を示しているといった言い方をせざるを得ないが、その中でもつねに、イエスと御父との相互内在を考えなくてはならないことを、ヨハネ福音書独特の叙述から学ぶのである。
 ここのイエスは、自ら歩み、御父のもとへ導く方ではあるが、同時に、その姿、右手の祝福のしぐさ、左に抱える巻物(みことばの象徴)によって、御父である神自身の姿を映し出していると考えてよい。
 造形作品をとおしてイエスの姿を見るとき、それをイエスの像としてだけではなく、つねに御父の像として味わうべきことを、きょうの福音朗読は教えてくれよう。この絵も、その意味をしっかりと考えているようである。

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