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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年2月14日  四旬節第1主日 C年 (紫)
イエスは……四十日間、悪魔から誘惑を受けられた (ルカ4・1−2より)


悪魔の誘惑を受けるイエス
  柱頭浮彫
  フランス オータン大聖堂 12世紀

   

 オータン大聖堂の柱頭浮彫において表された、悪魔の誘惑を受けるイエスの場面である。描き方が大変ダイナミックである。悪魔は、建物の上に立ち、右手は天を示し、左手は地に向かっている。イエスは左手を胸に当て、右手は、悪魔に対して何かを告げ知らせているようなしぐさをしている。
 イエスが荒れ野で誘惑を受けた話は、マルコ福音書(1・13)では「サタンから誘惑を受けられた」と一言述べているだけだが、マタイ福音書4章1−11節では三つの誘惑が言及され、ルカ福音書4章1−13節では、第2と第3の順序が異なるが、同じ三つの誘惑が言及される。ルカによると、第1の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)、第2は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。……もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(6−7節)、第3は「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ……」(9−11節)というものである。
 この浮彫における悪魔の描き方に、これら三つの誘惑の暗示があるかどうか見てみると、まず悪魔が立っている建物は、地上の国々の権力と繁栄を暗示しているように思える。天に向かって突き出されている右手と地上に向けられている左手は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(……天使たちが守ってくれるのだろう)と誘っている様子(第2の誘惑)、あるいは左手だけでも、「この石にパンになるように命じたらどうか」という誘い(第1の誘惑)のようにも見える。悪魔の身体は異様に屈曲している。この姿勢が、さらに表情が、いかにも邪悪に見える。
 それに対して、この誘惑の中でイエスはどうしているかをルカに即して見ると、第1の誘惑は「荒れ野」(1節)で断食をしているときのものであるが、第2の誘惑の際は、イエスを「高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」(5節)とあり、第3の誘惑では、イエスを「エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ」(9節)たとさまざまである。ところが、この浮彫でのイエスはゆったりと座している。主として玉座にいるようである。光輪も描かれ、服をまとい、主としての威厳をもって悪魔に対座している。邪悪な存在と、落ち着いて座す聖なる救い主としての神の御子イエス……、この両者の対向する光景を見ながら、福音書の叙述を読んでいくと味わいはさらに深くなる。
 このイエスが突き出す右手には、彼が悪魔に対して答えたすべての内容が含まれているようである。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4節。申命記8・3より)、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(8節。申命記6・13、10・20より)、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節。申命記6・16より)。聖書に「書いてある」「言われている」という言い方によって、これらが神の命令そのものであることが厳然と告げられている。
 人は神のことばによって生きること、神である主を拝み、主にのみ仕えるべきこと、主を試してはならないことが人の生き方として教えられていると同時に、イエス自身この心で生きていることが左手を胸に当てるしぐさによって表されていると見ることができる。
 誘惑者に真向かいになっている姿勢そのものも訴えるものがある。我々は、知らず知らずに何かに《動かされて》、あるいは《追われて》 、あるいは《流されて》、さらには《惑わされて》生きていることがある。その《何か》に向かい合うことをせずにそうなっていることがしばしばである。しかし、神の意志、神のみ旨はどこにあるのか、我々がどこに向かうよう求めているのかを尋ねるとき、自分を動かしているものと向かい合うことが必要になってくる。信仰生活において求められる自省や黙想の課題もそこにある。この浮彫でも、テーマはあくまでも神の意志であることを心に刻みたい。

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