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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年2月28日  四旬節第3主日 C年 (紫)
「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされた
  (第一朗読主題句 出エジプト3・14より)


モーセ
  彫像
  パリ ノートルダム大聖堂  13世紀

   

 きょうの第1朗読の箇所である出エジプト記3章1−8a節、13−15節にちなみ、そこで神の自己啓示を受けたモーセの姿をクローズアップする意味で、パリのノートルダム大聖堂に刻まれたモーセの肖像を鑑賞したいと考えた。
 この出エジペト記の箇所では、柴の間に燃え上がっている炎があるのにそれでも柴が燃え尽きないという不思議なことが起こり、その柴の中から「モーセよ」と呼ぶ声が聞こえ、モーセが「はい」と応えると、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい」(3・5)と言われる。モーセの召命と神の現存がともに語られている重要な箇所である。神がモーセに近づき、呼び招くという決定的な出来事と、その前提としての神のありさま、モーセが見ることを恐れて顔を覆ったほどの人間の次元から隔絶した存在、聖なる存在である事実とがともに語られている。
 モーセに対する神のことばの中で重要なのは、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(3・6)と、自らが、創世記で語られたイスラエルの父祖たち、族長たちを導いた神であるとの宣言である。こうして神に導かれる民の歩みの次の段階として、エジプト人の手からの救出と、乳と密の流れる土地への導き上りが約束される。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(3・14)という自らの名の啓示がある一方で、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」が「とこしえにわたしの名」とも言われている。「あるという者」という啓示は、抽象的に自らの存在を語っているというより、歴史の中で神の民の歩みを現実的に導く方であるということを告げているのだと思われる。そのしるしとしてモーセの近くに現れ、モーセを呼び、エジプト脱出を導く者として派遣するのである。
 表紙に掲げたパリ、ノートルダム大聖堂のモーセ像は、年月あるいは風雨のためか彫りが崩れてきつつあるが、この作品が描こうとしたモーセの顔は、神に名を呼ばれて「はい」と答えた顔でもあり、臨在する神を見るのを恐れた顔でもあるといえよう。また、やがて神に派遣された指導者として、民に言葉をかける顔ともなる。これまでもたびたびモーセ像を掲げるたびに注目しているが、彼の頭には二本の角が描かれる伝統がある。これは西方教会独特のものである。それは、聖書翻訳史上の有名な誤解に基づいて生じた要素である。
 すなわち、出エジプト記34章28−30節は、40日40夜、山上にいたモーセが下山して来たとき「顔の肌が光を放っていた」と述べる。ここで「光」と訳されたヘブライ語「ケレン」には「角」という意味もあった。そのため、教父ヒエロニムスのラテン語訳聖書(=ウルガタ訳)は、はっきりと「角」を意味するラテン語を使ってここの文意を翻訳したのである。以来、中世の聖書写本画や聖堂壁画でモーセが描くときには、彼固有の特徴として頭に角を描くことが通例となった。モーセが出会った神の独特な力強さ、聖性といったもののの象徴と考えてもよい。
 そのような神がモーセを遣わし、民を解放し、約束の血へ導くと約束する。この同じ神が、ついにイエスの受難の道、したがって人類の決定的な救いの道を導こうとしている。そして、イエスの死と復活においてすべての計画を決定的に成就され、以来、新しい神の民(イエス・キリストによる契約に生きる民)の歩みを導いている。その導きの力に出会ったモーセの顔に、我々は、イエスの顔を重ね合わさずにはいられない。さらには、イエス・キリストを通して神である御父、父である神と出会うように招かれている我々自身の顔を重ねていってもよいのではないだろうか。

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