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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年4月24日  復活節第5主日 C年 (白)
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)


使徒たちの中のイエス
  壁画
  ドミティッラのカタコンベ  4世紀

   

 キリスト教美術初期の主要な舞台の一つ、カタコンベの壁画における、弟子たちの集いの中にいるキリストの図。青年の姿で描かれるキリストの、手を広げ、力強く言葉を発しているような姿が印象的である。
 特に食卓らしい描写はないが、明らかにイエスを囲んで半円型に座しているような弟子たちの姿勢から、食卓の集いを想定することもできよう。それで、きょうの福音朗読箇所を含むヨハネ13章の光景を自然に思い起こさせたのである。
 ヨハネ13章は、ヨハネ福音書における最後の晩餐の箇所である。この福音書では、それが「過越祭の前のこと」(13・1)と語られる。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった」(13・1−2)。
 よく知られるように、ヨハネ福音書には、この晩餐の中で、他の三つの福音書が記すような聖体の秘跡の制定と呼ばれることは記していない。13章で述べられるのは、弟子たちの足を洗うという行いとそれに関する教えが内容となる(13・1−20)。次にユダの裏切りを予告する場面(13・21-30 )。この食卓の場で、イエスがパン切れを浸してユダに与えることでそのことが示される。次が、きょうの福音朗読箇所の含まれる31−35節で、愛の掟を弟子たちに授けることが中心である。すべてが死、というより父のもとに帰るときが間近いという意識の中で行われ、語られたことがここに記されている。
 ヨハネ福音書において、主の食卓の制定はここで語られる内容ではなく、すでに、6章22−58節の長い教えの中に含意されている。自分が「天から降って来たパンである」(41節)と語り、また「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)と説く中で、聖体の秘跡の意味が明確に語られている。
 ヨハネ福音書においては聖体の制定は、イエスの存在とともに含意されていると考えているようである。1章が示すように、すでに神と共にある言(ことば)、いわば永遠の神のことばとして明かされ、その「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)というところに、まずキリストの神秘があり、ここにすでに聖体の秘跡の根源もあるのである。ヨハネ6章におけるイエスの教えに応えてペトロが告白する「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6・68)も、この肉となった神の言(ことば)、永遠のみことばであるキリストに対する信仰的理解を表明したものといえよう。イエスが永遠のみことばであるということは、すなわち、イエスが天から降ってきたパンであるということなのである。
 このような前提をもって、13章の最後の晩餐でのイエスの行いと教えをみるとき、ここは、我々にとっては、聖体の秘跡の豊かな側面を明らかにする内容であることが見えてくる。イエス自身が洗足をとおして身をもって示したへりくだりと奉仕の姿勢、これはきょうの箇所で、愛という言葉で言い表され、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13・34)という簡潔で印象深い掟として与えられる。我々に委ねられた聖体の秘跡である主の晩餐、すなわち感謝の祭儀、ミサは、互いの奉仕の秘跡であり、愛の秘跡にほかならない。といっても、水平的(人間関係的)なレベルでの奉仕や愛というだけでなく、どれもキリストのようにすることであり、キリストの奉仕・奉献・愛を受け、それに結ばれて行うことになる神の民の奉献・奉仕・愛の実践である。つねにキリストが頂点であり、源泉である。イエスは新しい掟を、ただ読み上げるのでも、命じるのでもなく、「与える」(34節)のである。自分自身を与えるということがそこには前提となって語られている。
 このカタコンベの壁画の中のイエスの姿も、手を大きく広げ、弟子たちに向かって自分自身の存在を明け渡している。さりげない表現にも、深いキリスト理解がこめられている。

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