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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年5月8日  主の昇天  C年 (白)
イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる(使徒言行録1・11より)


天に上るイエス
  エグベルト朗読福音書
  ドイツ トリール市立図書館 980 年頃

   

 イエスの昇天を表現する美術作品の中で、このエグベルト朗読福音書の図は、イエス自身が神のもとに向かっていくという姿勢で描かれるタイプの典型的なものの一つ。イエスの右の手が神の右手によって掴まれ、引き上げられているが、同時に、自ら上っていくというイエスの能動性が感じられ、弟子たちのほうをもう見てはいないというところに、きょうの第一朗読で読まれる使徒言行録1章1−11節(主の昇天で毎年読まれる箇所)の中の「イエスが離れ去って行かれるとき」(1・10)という叙述との対応がある。昇天を描く別な代表的なタイプの図では、イエスが正面、もしくは下にいるマリアや弟子たちのほうを見下ろしながら手を広げて祝福している姿勢で描かれる。これは、きょうの福音(C年の朗読箇所)であるルカ24章46−53節の中の「祝福しながら、彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24・51)に近いともいえる。
 神のほうを見て歩んでいくような描き方をとっている、このエグベルト朗読福音書の図を味わってみよう。イエスは、この朗読福音書の他の挿絵でも同じだが、ひげのない若者の姿として描かれている。若者の姿というところをあらためて考えるとすれば、永遠の命の若さや純粋さ、清新さが印象づけられる。また、御父である神に対して、神でありつつも、御子であるという立場を描き分けているものとも考えられる。この絵の場合、御父の右手によってしっかりと彼の右手も握られているところに、ある意味での父に対する受動性も明確に表現しているわけで、そのあたりを熟考していることが窺われる。
 御子の栄光を表すアーモンド型の光背もここでは鮮やかである。人々の頭上に、はっきりと別な次元が区切られていて開かれている。昇天とはイエスが上に向かったというだけでなく、弟子たちの上に(つまり人間の世界に向かって)天の次元をしっかりと開いて見せたという意味合いもある。そして、人の次元から上って行ったイエスの手が父の手に握られているところに、まさしく天と地をつなぐ方、神と人を結びつける方としてのイエスの姿が表されている。
 ところで、イエスが左肩に担っているのは、先端に十字架が付いている王笏である。罪と死に対する勝利のしるしであり、十字架によって王となった者であることを示す。エグベルト朗読福音書では、この王笏(おうしゃく)はマリアへの受胎告知の場面で、天使が抱えている。それは、生まれてくる幼子の使命を先取りして暗示する役割をもっていた。いまや、イエスは、その使命を完全に果たして、御父のもとに迎えられていく。
 図の下半分、イエスの真下には「白い服を着た二人の人」(使徒言行録1・10)がいる。その杖が神の権威のしるしであるので、ここは神の使い(天使)であることが示されている。(向かって)右側の先頭にはペトロ、その後ろに5人の弟子、左側の先頭にはマリア、その後ろにも5人の弟子。ペトロ以下11人ということで、その後補充されることになる使徒言行録の叙述を反映している。ペトロ、マリア、それぞれが教会の象徴となる。弟子たちも含めてその表情は見ると、実に神妙である。真摯にこの出来事を受けとめている。さらにマリアとペトロの手は、天に上るイエスをいわば送っているようにも見える。神のなさること、イエスの歩みの意味を十分に知っているようである。答唱詩編が告げる「神をたたえてほめ歌え。わたしたちの王をほめ歌え」(詩編47・7 典礼訳)という賛美への誘いの意味もこの手の動きに含まれているかもしれない。あるいは、すでにこの出来事に含まれる、聖霊降臨を受けての新しい使命の開始に備えている手の動きかもしれない。いずれにしてもイエスにつき従ってきた歩みのクライマックス(頂)がこの山の上にある。

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